早朝、レオナを起こしに行ったラギーは、寝ているレオナを見てぴくりと耳をはためかせた。
長年の経験がモノを言う、ラギー特有の危機管理力が告げている。
今日のレオナさんはやばい。何がやばいかっていうと、油断すると殺される可能性があるくらいやばい。正直このまま起こさずに部屋から退散したい。
いっそそうしようか。仮病使って、置き手紙でもなんでも置いて逃げ出してしまおうか。メモ用紙が無いか探そうとした瞬間、レオナが呻きながら目を覚ました。いつもは叩いて喚いても起きないくせに、どうしてこういう時だけ自分で起きるんだとラギーは心の中で毒づいた。
「れ、レオナさん?おはようございます……」
「…………」
「起きたなら身支度自分でできますよね?それじゃ俺は部屋の外で待ってますから……」
「ラギー」
「は、はい……?」
目が座っている。凶悪な顔で睨まれる意味は『こっちに来い』である。
断ろうものなら、どんな報復が待っているか知れない。どちらも地獄なら、少しでもマシな方を選びたい。
ラギーは心の中で十字を切りながらレオナに近づいた。目の前に立つと腕を強引に掴まれ、そのままレオナの懐に閉じ込められる。ラギーは既に涙目だった。ばくばくと心臓がうるさく、これから何をされるか想像しただけで耳がへたれこむ。
「ラギー」
至近距離で呼ばれたその瞬間、
がぶり。
「いってえええー!いたい、痛いっス!レオナさん!」
思いきり耳をかじられた。じたばたともがいてもビクともしないレオナは、ラギーの耳をガブガブと噛み続けている。
「れ、レオナさ……っ、お願い、だから止め……っ」
絶対血が出てる!ジンジンと熱を持つ耳からレオナの歯が離れたかと思うと、今度は舌でざりざりと舐められる。
傷になっているであろうそこを舐められるのは、治療の意味で優しくならまだしも、傷口を広げるような押し付け方では痛みに拍車がかかるだけだ。
ろくな抵抗もできなくなって、ひたすらレオナが満足するのを待っていると、やっと耳が解放された。
涙目になりながら安堵の息を漏らすと、今度は顎を掴まれた。
「……っ、待っ……!」
がぶり。
ラギーの頬に噛みついて、レオナはぐるぐると喉を鳴らしている。
ああ、絶対思いっきり歯形ついた……。ラギーはどこか諦めにも似た境地でされるがままになっていた。
なんの周期か、動機はわからない。
けれど、レオナには突然前触れも無く、こんな日がやってくるのだ。
とにかく何か噛みたくて仕方がないらしい。前回は、授業中ずっとラギーの指をがじがじと噛み倒し、周囲がどよめいていた。
口寂しいのかとガムを渡してみたり、犬用おやつをプレゼントしてみたりしたが、どれも綺麗に投げ捨てられた。
とにかく、ずっと人をお気に入りのおもちゃよろしく噛み続けているのだ。
今のところ一日経てば満足するのか元通りになるが、その度にラギーはレオナに拘束され、いたるところに噛み痕をつけられているのだった。
きっといつか、自分はレオナの食料として食べつくされるに違いない。
甘噛みどころの話ではなく、本気で噛みつかれるので、ラギーはいつも命の覚悟をしてレオナの傍にいるしかなかった。
そして現在、すっかりベッドに引きこまれて羽交い絞めにされ、首に噛みつかれているところである。
頸動脈だけは勘弁してくださいっス。そう言い残してラギーは体を預けた。
(今日はもう授業は出られないかもっスねえ……)
目線だけ動かして窓の外を見ると、青空が広がっていた。
いい天気だ。どうせ部屋にいるなら洗濯物でも片付けてしまいたい。
現実逃避も込めてぼうっと空を見上げていると、顔を上げたレオナが体を起こし、ラギーに覆い被さった。今度はどこを噛まれるのかと身構えていたが、レオナの牙が降りてくる気配は無く、そろり見上げてみれば、緑色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「レオナさん……?どうしたっスか?」
何故か揺らめいているように見えて、ラギーは無意識にレオナの目尻に手を伸ばし、指で優しく撫でた。
「どこか痛いんですか……?」
今の今まで痛い思いをしていたのは自分の方なのだが、そう問いたくなるほど、レオナは哀しそうな顔をしていた。
しかし、レオナはラギーの問いかけに一瞬目を見開いた後、答えることはせず、すぐにまた首筋に顔を埋めて歯を立て始めた。
「いてて、いたい、ですって、ば」
「…………から」
「え?」
「お前がどこか行きたそうな顔してたから」
今度はラギーが目を見開く番だった。
空を見上げていただけなのだが、何故か突然、スラムの子供達が脳裏を過ぎる。ラギーが寮に戻る時、子供達は必ず寂しそうな顔でラギーとの別れを惜しんでくれた。その瞳は『行かないで』と告げていた。
「……どこにも行きませんよ」
「…………」
「ずっと、あんたの傍にいます」
「嘘つくな」
「ええ〜?いつも一緒にいるでしょ?」
「この前はバイトだからって別の寮に行ってただろーが。一昨日は部屋の片付けが終わったらすぐに帰っちまったし、昨日は来もしなかった」
「昨日は用事があるって、ちゃんと伝えたじゃないですか」
「来なかった事実に変わりはない」
「ええ〜〜、何、それで機嫌が悪いんですか?今日」
今まで噛まれていた日の前日頃を思い返すと、確かに似たようなことが多かった。つまり、ラギーがレオナの傍にいない日が増えた時期だ。
ラギーは頬が緩むのを我慢することができなかった。蓋を開けてみれば、この噛み癖は寂しさの現れということに他ならない。
むぎゅ。
思いきり頬をつねられた。
「ひたたた、なにするんすか、れおなひゃ」
「顔がうるせえ」
「ひどっ」
心底面白くないという顔をされたが、種明かしされた今では、その言動も可愛く映ってしまうからしょうがない。
急に、大きな子供を相手している気分になり、頬をつねる手に自分のものを重ねてぽんぽんとあやすように撫でてみた。
また怒りだすかもしれないとも思ったが、レオナは素直に手の力を弱めたので、その手の平に頬ずりする。
「レオナさん、何かしてほしいことあります?」
「………」
「最近来れなかったお詫びに何か言うこと聞くっスよ」
ね?と片手を上げてレオナの頬を撫でようとした。
すると手首を掴まれ、腕にがっつり噛みつかれた。
「いっでーー!」
「うるせえ」
「痛いモンは痛いんっスよ!ほら!歯形!血も出てる!こんなことしても何も変わりませんからね!」
「……どういう意味だ」
再びレオナの表情が険しくなった。
しかし理由の分かった今では恐くも何ともなく、ラギーはレオナを睨み返した。
「噛まなくても俺はあんたのモンだって言ってるんです!」
レオナが目を見開いた。ラギーはお構いなしにレオナの三つ編みを引っ張り、引き寄せて唇をかすめとった。
「どうせマーキングされるなら、こっちのがいいっス」
さすがに少し恥ずかしくなって目線を逸らせば、レオナに顎を捕らえられ、再び唇が重なった。
角度を変えながら何度も吸い付かれ、舌を噛まれてラギーは体を震わせる。
先程までの、痛覚が優先されるようなものではなく、もっと体の芯を引っ張り上げられているような感覚がした。
こんな噛まれ方だったら、どんだけでも受け入れてやるのに。キスを繰り返しながらそんなことを考えていると、やがて唇が解放された。もっとしていたくて、レオナにねだろうとした。その瞬間、
がぶーっ。
「いっだああああ!何回目ですかこの展開、いい加減にしてくださいよ!」
鼻頭に噛みつかれて、ラギーは度肝を抜いた。今の流れだと、もっと甘いじゃれ合いが始まるのではないのか。絶対痛くないやつ。
「ギャンギャンわめくなうるせえ」
「誰のせいだと思ってるんスか!」
「お前が言うこと聞くって言ったんだろうが。大人しくしろ」
「解釈違いっス!」
むやみに噛まないで思っていることを言ってほしかっただけのラギーは、先程の言動を果てしなく後悔した。
「おいラギー」
「なんですか」
「今更言われなくてもお前は俺のモンだし、やりたいと思ってることをお前にいちいち了解取るつもりはねえ。俺は、俺がやりたいことをやってるだけだ。だから、」
つべこべ言わずに噛まれてりゃいいんだよ。
結局この日一日中、ラギーはレオナに噛み倒され、その後もレオナの噛み癖が強い日は不定期にやってくるのだった。
END