前世の記憶が無い総司令と記憶がある信がくっつくまでの話。 ※原作に無い史実ネタの匂わせがあります。 素敵な挿絵は白湯様からいただきました!圧倒的感謝! 初出 Webオンリー「群雄創記-2022-聖夜の宴」
思い出したのは突然だった。
雑居ビルに囲まれた四角い空が果てしない天の原に変わり、対のような荒野が目の前に広がる。
そこには数多の人、人。甲冑を身に着け武器を構え、血を流しながら戦っている。
砂埃と咆哮に塗れた無数の軍旗が、人の群れの中で存在を鼓舞するように翻る。
倒され地面に投げ出され踏みつけられ、次第に少なくなっていく旗の中で、力強くはためく「飛」の字があった。旗の先頭で、輝き打ち振るわれる矛があった。
――――天下の大将軍。
頬を涙が伝う。何千年もの時を経て取り戻した激情を受け止める為に、信は立ちつくし只々空を見上げるしかなかった。
「……信。おい、信!」
後ろから肩を揺さぶられ我に返って振り向くと、尾平が怪訝な顔でこちらを見つめていた。
槍を片手に持った甲冑姿が一瞬重なっては消え、いつもの土木作業の為の服に戻る。
「どうしたんだよ。急に立ち止まったら危ねえだろうが。……って、信お前、泣いてんのか?」
腹でも痛いのか、どうしたと慌てだす仕事仲間をしばらく見つめた後、信はおもむろに尾平を抱きしめた。
「なっ、お、おい?信?」
「尾平……」
「……あっ、いやその、お前の気持ちは嬉しいけど、俺には東美ちゃんという心に決めた人が、」
「兄貴達、何やってんだよ」
「あ、到。いやよくわかんねーんだけど、信がいきなり……」
「うわぁっ!?」
尾到の名前を聞いた途端、がばりと顔を上げた信は尾到に抱き着いた。勢いが良すぎてそのまま二人で地面に倒れ込み、混乱した尾到がなんとか信を引き剥がそうとするが、まるで子泣きじじいのように離れない。
信の奇行に尾兄弟が途方にくれていると、この状況を救ってくれそうな人物を見つけ、尾平が叫んだ。
「おーい!漂!助けてくれー!」
信の身体がぴくりと揺れる。近付いてくる足音に顔を上げれば、見下ろしてくる漂がいた。
「信?」
「…………漂?」
「うん?」
「漂だ」
「うん」
「漂だ~~~!!」
熱でも出たか?と号泣する信の額に手をあてて首を傾げる漂と、圧し掛かられたままで苦しくて早くどいてほしいと遠い目をする尾到。そんな3人の様子に何故か妙な安心感を覚えた尾平は、とりあえず今日も平和だなあとひとつ背伸びをした。
太陽が真上を過ぎる頃、作業に一区切りがついた信は組み立てた足場を上り、ビルの屋上で昼食を摂ることにした。
晩夏とは名ばかりで、日差しの強い毎日が続いている。屋上のコンクリートも太陽に照り付けられ湯だっているが、ビルの中と屋上を繋ぐ階段の出入り口にちょうど影が出来るところがあり、そこでは涼しい風を感じることができる。限られたスペースはいつも作業員同士で取り合いになるが、今日は信に譲られた。先ほどの自分が、気を遣われるほどに様子がおかしかったのだろう。ゆっくり休んで来い、と生温い目で漂に送り出されたことを思い出す。漂は現場のリーダーだ。泣き顔を晒した気まずさもあって、信はぶすくれながら頷いたのだった。
屋上から見渡す景色は無機質な建物だらけで、先程取り戻した記憶の景色とは似ても似つかない。
コンビニで買ったパンをかじりながら、信は携帯電話を操作してアドレス帳を片っ端から辿っていった。
飛信隊の古参勢は仕事の同僚として周りにいるようだ。漂に至っては自分の兄だ。兄と言っても年はひとつしか違わず血も繋がっていないが、二人はみなし子で、孤児院で家族同然に育ってきたのだった。昔と似たような境遇だったことに思わず苦笑してしまう。
「政とか、何やってんのかな」
あの頃の自分が金剛の剣として身を差し出した王。苛烈な時代を共に駆け抜けた。会えるものなら会って、話をしてみたい。
羗瘣や河了貂、山の民らもアドレス帳には見当たらない。生まれ育ちが違うと近くにはいないのかもしれなかった。昔に住んでいた地域あたりまで行けば見つけることができるだろうか。今度長い休みでも取って探しに行くのも悪くない。
もうひとつわかったことは、自分以外、誰も昔の記憶を取り戻していないことだ。当時起こった出来事を知っているか聞いてみたりもしたが皆首を傾げるばかりで、歴史に妙に詳しい信を怪しむ始末だ。
信自身も何がきっかけだったのかわからないし、皆に記憶が無いなら、それはそれで構わないと思った。今こうして生きて皆と共にいられているということが一番嬉しい。
「………………」
いや。一人だけ。自分と同じように記憶を取り戻していて、会いたいと思ってくれていたら。そう願ってしまう人間が一人いる。
戦乱の世の中で、長いとはいえない期間を一緒に過ごした。今まで忘れていたことが不思議なほど、目を閉じれば脳裏に焼き付いて鮮明に思い浮かべることができる。姿だけではない。声も、匂いも、温かさも。
「あんたも、どこかで生きて存在してるのか?」
なあ、昌平君。
呟いた名は風に運ばれ、街並みに溶けて消えていった。
焦る指先を叱咤しながらマップを操作してナビを設定する。クロスバイクのハンドルに携帯電話を取り付け、ペダルを勢いよく踏んだ。
昨夜はなかなか寝付けなかった。記憶を取り戻したことで今までの日常風景さえ新鮮に映り、興奮がおさまらなかったのだ。おかげで寝坊してしまい、普段は一度会社へ出社してから皆で現場へ向かうのだが、それでは間に合わなくなり、現場へ直接向かう羽目になってしまった。
マップを確認しながら慣れない道を走る為、どうしたってスピードが思うように出せない。焦ったところで仕方がないのは分かっていても、気が急いて注意が散漫になってしまう。
だから、横道から車が近づいてくることに、すぐに気付けなかった。
「――――っ!」
咄嗟に急ブレーキをかけて止まろうとするが、勢いを殺しきれなかった反動で壁に激突してしまう。打ちつけた背中が痛い。呻きながらズルズルと地面に倒れ込み、無意識に庇ったクロスバイクに目をやった。なけなしの貯金を叩いて買ったのに壊すなんて冗談じゃない。
それと、車――。感覚的には、ぶつかる前に避けられたと思うのだが。こういう場合、どちらに過失が及ぶのだろう。運転している相手がどういう人物かも気になる。自分も不注意だったから相手を責めるつもりはさらさら無いが、上手くやり取りできるだろうか。こんなことならケチらず保険に入っておくんだった。
痛みで起き上がれないままこれからのことに思考を巡らせていると、車のドアが開き、誰かがこちらへ向かってくる。
「大丈夫ですか?」
信は目を見開いた。心配そうに見下ろしてくる男に、見覚えがあったからだ。
確か、河了貂が先生と呼んでいた。敵が咸陽の喉元まで攻めてきた時にも共に戦った。昌平君が呂不韋から離れ味方になった時も、近くにいた人物だ。
返事もせず凝視してくる信の様子に、男は不思議そうに眉を潜めたが、やがて同じように目を見開いた。
「……あなたは、もしや」
男が口を開いたところで、再び車のドアが開く音がする。後部座席から降りて来た人物を見た信は、今度こそ呼吸が止まった。
肩まで伸びた艶やかな黒髪は歩く度に風で揺れ、結わえた時の後れ毛の柔らかさを彷彿とさせた。シャープな顔の顎先には薄く髭が整えられている。薄い唇に、スッと通った鼻筋。何より、意志の強そうな切長の目が、信に迷う余地を与えない。
間違いない。今、信の元へ向かってくる男は、昌平君だ。
信が動けずにいると、傍まで近づいてきた昌平君が様子を一瞥し、屈んで口を開いた。
「申し訳ないことをしました。後から痛みが悪化する場合もありますので、必ず病院へ……それと、自転車も整備してもらった方がいいですね」
先に降りてきた男の方へ体を向けると、いくつか指示を与えて、再びこちらを向いた。
「私は急ぎの用がありますので、先に失礼します。今回のことについては、彼に遠慮なくお話ください」
「……っ、待っ」
背を向けようとする昌平君に手を伸ばしかけたが、振り向いた顔があまりにも無表情で、思わず口を噤む。昌平君は、信が言葉を続ける意思が無いことが分かると、タクシーを呼び止めて去ってしまった。
「飛信隊の信だな」
驚いて振り返れば、信の反応に男は満足そうに笑みを浮かべた。
「我が主、昌平君の補佐を務めていた介億と申す。何度か顔は合わせていたが覚えておるかな」
「ああ。テンも世話になってたからな。記憶がある奴に会ったのは初めてだ」
「私もだ。まさかこんな出会い方をするとは思わなかったが」
「……昌平君は、あの様子だと思い出してねえな」
信の言葉に介億が頷く。落胆しなかったといえばもちろん嘘になる。しかし無理矢理思い出してもらいたいとは思わなかった。
自分が生まれる前の記憶の存在に振り回されるなんて思ってもみないだろうし、何より、楽しい記憶ばかりではない。今の昌平君が穏やかに過ごせているならそれでいい。顔が見れただけでも僥倖としなければ。
信は体に付いた汚れを手で払い、クロスバイクを起こして介億に向き直った。
「俺も仕事に遅刻しそうなんだ。もう行くぜ」
「いや、そういう訳にはいかん」
「体もチャリも大したことねーから心配すんな。後から請求とかもしねえし」
「馬鹿者。交通事故とはそんな簡単なものではないのだぞ。それに、このまま何も対処しなかったとあれば私が主に叱られるわ」
昌平君の名を出されて思わず黙り込む。迷惑にはなりたくない。仕方なく、事故に遭ったことを会社に連絡した。その間に介億が警察と保険会社へ連絡を取ってくれた。自転車はメンテナンスをして家の方へ届けてくれるというので素直に預け、介億の車で病院へ向かった。
「体も特に問題ないってよ」
「それはよかった」
待合室に座る介億の元へ戻ると、手続きを済ませて外に出た。車に乗り込み発進したところで介億が口を開く。
「少し相談があるのだが」
「相談?」
「昌平君のことだ」
信はドキリとした。なるべく考えないようにしていたので、動揺を悟られないようにしながら介億をルームミラーごしに見る。
「先程会ってみて、何か感じなかったか?」
「……記憶が無いのは分かってるけどなんか、冷たい感じはしたかな」
見た目や言動、どれも本人に間違いないのに、その表情は信が知っているものではなかった。
「その冷たさは、かつての昌平君には無いものだ」
「え?」
「主はああ見えて、温情のある方なのだ。沈着冷静に見えこそすれ、血の通わない表情をすることなどなかった。しかし、現世ではその傾向が強い」
「……そうなのか」
「そして時折翳りを帯びる瞳は、何か足りないというように彷徨わせている。まるで誰かを探しているような。私はそれが、そなたなのではないかと思っている」
驚いて介億を見るとニヤリと笑みを返された。昌平君の側近であったので二人の関係を知っていることに疑問は無いが、面と向かって言われると気恥ずかしい。ごまかすように頭を掻きながら信は問い返した。
「でも、それならさっき会った時に思い出すんじゃねーの?」
「何とも言えん。私は今もほとんど行動を共にしているが、思い出す兆しは一向に無いのだ。何かきっかけが必要なのだと思うが。……もう同じような情は持っておらぬか」
「持っていたとしても、今の昌平君に必要とは思えねえ」
深入りはするまいと決めたばかりだったのに、まさか逆に頼まれるとは思わず、信は逡巡した。
先程介億からもらった名刺に書かれた会社は、信でも耳にしたことがあるほど有名なところだ。そんな場所に勤めている人間が、いくつも年下の、全く関連性もない土木仕事をしている男と繋がったところで利益など無いだろう。もちろん以前の記憶や気持ちがあるなら別だ。しかし、今現在全くもって関係性はゼロに等しい。
顔を背けてぼやく信に、介億は小さく唸った。
「今はそれでもいい。本当にどうにもならなかったら私も潔く諦めよう。だから少しだけ我儘に付き合ってはもらえないだろうか」
「……なんで、そこまで」
「深い理由などない。ただ、主に幸せになってほしいだけだ」
以前の分まで。
その言葉は重すぎて続けることは出来なかったが、信には伝わっただろう。
「……何すりゃ、いいんだ」
高層ビルの一階に位置するカフェでブラックコーヒーを一杯飲むのは、昌平君の朝の日課になっている。しかしゆっくりしている時間は無い。カウンターに座って今日のスケジュールを軽く確認する程度で、コーヒーを飲み終わり次第すぐ席を立つ。
今日も同じようにカフェを訪れカウンター席に座った昌平君を確認した信は、用意が出来たコーヒーをトレイに乗せて近づいた。目の前にコーヒーを置くと、昌平君が顔を上げてこちらを向く。
「おはよう」
「っす」
信が控えめに頭を下げると、昌平君が頷いてコーヒーに口を付ける。その様子を眺めながら、黒いエプロンのポケットに入れた伝票を取り出してコーヒーの傍に置き、ごゆっくり、と一声かけてその場を離れた。
信は、昌平君が働いているビルのカフェでアルバイトを始めた。
もちろん介億の提案である。信と昌平君が接触する機会を増やす為、介億は信との親戚関係をでっち上げた。
信とは遠い親戚で、縁が無く会う機会も無かったが、先日の事故で偶然再会した。そこで信がアルバイト先を探していると聞き、このビルのカフェを勧めた。
ただ、信の家からは遠いという。勧めた手前、自力で通えと言うにも気が引けたので、最寄り駅まで車で送ってやりたい。もちろん昌平君の業務に支障のない範囲で。
そう昌平君に相談してみようと、介億が宣ったのだ。
事故トラブルの遭った相手と相乗りさせられるなど、絶対断られるだろうと信は思っていたが、昌平君はあっさり承諾したという。
動揺が抜けないままバイトの面接日が決まり、出勤日が決まり、信は本職の合間を縫ってカフェの店員として働くことになったのだった。
カフェでのアルバイト時間は短い。対する昌平君も、その日のスケジュールに合わせて出社してくる為、出勤の車に信が同乗することはほぼ無い。
反対に、終業時間はある程度決めているようだ。信もその時間にカフェのシフトを合わせて上がるようにしている。そのままビルの駐車場へ向かえば、介億が車で待機している、という流れだ。
今日は既に後部座席に昌平君が座っている姿が見え、信は慌てて車に駆け寄った。
「待たせてすんません」
「いや、私も先程来たところだから気にしなくていい」
遠慮がちに隣に座ってバックミラー越しに介億を見ると笑みを浮かべながら頷かれ、信は安堵の息をついた。
車が静かなエンジン音を立てて発進する。
季節は秋へ変わり、日の入りも大分早くなった。外は既に薄暮となり、人工的な明かりが街を照らし始めている。流れていく景色を眺めるフリをして、信は窓越しに写った昌平君を盗み見た。
タブレット端末を操作して何かを確認している。車の中ではいつもこんな感じだ。仕事なのだろうが、帰宅してからもずっと作業をしているんじゃないだろうか。
昔も大概仕事人間ではあったが、戦国の軍総司令官というポストにいれば常に緊張の渦中にいたので仕方がなかっただろうが、それでも休暇として自分の屋敷にいる時は少なからず和らいだ空気を漂わせていた。しかし、今は全くそれが無い。
帰りの車に同乗するようになって数日経つが、昌平君とどう会話をしていいものか、いまだに信は考えあぐねていた。
他人と話すことに臆しない方ではあるが、昌平君はそもそも前提が違う。
昔のように気安く話しかける訳にもいかないので、年齢差の相応に敬語を使ってはみるものの、これも違和感がありすぎてぎこちなくなってしまう。
「仕事にはもう慣れたか?」
「……えっ、あ、いや、まだ覚えることが多くて」
タブレットに視線を向けたまま昌平君から問いかけられ、盗み見をしていたことがバレたかと内心焦りながら慌てて言葉を返した。
せっかく話しかけられたのだ。できればこのまま会話を続けたいが、何を話していいか分からない。事情を知っている介億に助けを求めてもニヤけた顔を返されるだけで、唯一の味方から面白がられていることに信は苦虫を噛み潰す。
すると、昌平君が小さく笑った気配がして、信は思わず振り向いた。
「私と話すのは緊張するか?」
「へ、いや、そういう訳じゃ」
「そうか?気配がずっと騒がしいが」
あんたは超能力者か何かか?
ヒクリと口元を引き攣らせるが、そういえば漂や尾平達にも顔がうるさいと文句を言われたことがある。嘘がつけない性格なのは自覚しているが、感情がダダ漏れなのはいかがなものか。ちょっと落ち込んでいると、それすらも伝わったのか、昌平君がクツクツと肩を揺らして笑っている。そして、こちらを向いたかと思うと、大きな手が信の頭に触れ、軽く撫でた。信が目を丸くしたのを見て、自分がしたことに気付いた昌平君も同じように目を開いた。
「……すまない。無意識だった」
手は離れていったが、昌平君の目は信を見つめたままだ。そして、口元を緩めて息を吐いた。
「君を見ていると力が抜ける」
そう微笑む昌平君を、信はただ見返すことしかできなかった。
駅の前で車を降りて頭を下げる。車が見えなくなったのを確認して、信は深く息を吐いた。顔が熱い。胸が痛い。荷物を持つ手は心なしか震えている。あの場で泣き出さなかった自分を褒めてやりたい。頭を撫でて、微笑んで。それは昔、二人で過ごしている時によく昌平君していた仕草だった。昌平君は無意識だと言った。記憶が無くても同じことをしたいと信に感じてくれているのだとしたら。
「……期待、するからな。バカヤロー」
手の甲で火照った頬を押さえながら、車が消えていった方角を睨みつけてぼやいたのだった。
今日も今日とて、昌平君は難しい顔をしている。いつものようにガラス越しに盗み見るそれは、信が分かるほどに疲労が色濃かった。無精髭こそ生えていないが、隈の目立つ面差しは、大戦前の軍議明けを思い出させる。今でもそんな余裕のない境遇に身を置いているのだろうかと思うと、信もつい渋面を浮かべた。
「そんなに忙しいんすか、仕事」
「そうだな。まあ、ずっとという訳じゃない。今手掛けている案件が終われば落ち着いてくる」
終わればって、いつ終わるんだよ。
もう出口が見えているかのような言い方だが、信からしてみれば、まだ出口を探している途中のように思えた。そのくらい、昌平君はずっと忙しそうにしている。
不意に、昌平君の手からタブレットが落ちそうになって、信が咄嗟に受け止めた。どうしたのかと昌平君を見上げると、苦しそうに浅く呼吸をしており、明らかに顔色が悪い。これはもしかしなくても、熱が出ているのでは。
「ちょっと休んだ方がいいっすよ」
「……大丈夫だ。このくらいで休んでいては仕事に支障が出る」
「いやもう支障出てるじゃないっすか。休んで元気になってからの方が効率も良いっすよ」
「、しかし」
焦れた信は、手の平を昌平君の額に押しつけた。そんなに力を入れていないのに、昌平君は簡単に座席へ背中を預けてしまう。手の平に伝わってくる体温は予想よりも熱い。今度は頬を両手で包んだ。こっちも熱い。抵抗せずにされるがままになっていることも、明らかに弱っている証拠だった。信は昌平君を真正面から見据えると、半眼になって呻いた。
「あんたが弱ってんのは、俺が嫌なんだ」
勢いのままに介億へ昌平君の家まで連れて行けと促し、辿りついた先は立派な高層マンション。フラつく昌平君に肩を貸しながら、エントランスをくぐりエレベーターへ乗り込んだ。昌平君の部屋に到着してまず感じたことは、歩きやすいということだった。とにかく物が少ない。申し訳程度に掃除ロボットが設置されているが、掃除するゴミなんて落ちてないんじゃないかとすら思う。必要最低限の物しか置かれていない部屋は殺風景としか言いようがない。
昌平君をベッドに座らせて着替えを促す。素直に従う昌平君が上着を脱ぎ、シャツの前を寛げたことで汗ばんだ素肌が見え、信は慌てて後ろを向いた。
「食欲、あるなら何か用意しますけど」
「……ありがたいが、家には食材が何も無いんだ」
「じゃあ、何か買ってきます。食べたいものあります?」
「任せるよ」
カードキーを預かり、信はマンションの向かいにあるコンビニへ向かった。出る前に冷蔵庫ものぞいてみたが、ミネラルウォーターや酒類しか入っておらず、そうなると調理器具もまともに揃っていない。食材を買うより出来合いものを買う方が賢明だと判断し、レトルトのお粥や栄養ドリンクをかごに入れ、あとは弁当コーナーで食べやすそうなものをいくつか見繕った。
部屋へ戻ると、昌平君は既にベッドへ横たわっていた。近づいてみると、信に気付くことなく眠っている。やはり、限界が近かったようだ。どうせなら少しでも何か口に入れた方が回復も早いだろうが、せっかく眠れたところを起こすのは忍びない。
ちなみに鎮痛剤や胃薬など一般的な薬は常備されており、使った形跡もある。もちろん薬に頼るのが悪いわけではないが、これだけ物が少ない部屋で薬が減っているという状況に、信はつい顔を曇らせてしまう。
「無理するのが普通、なんて、そんな訳無いんだからな」
現世は平和だ。いつ死ぬか分からないような戦乱の世の中じゃないし、身を削る生き方なんてしなくていい筈だ。一体何が、昌平君をそこまで追い詰めているのだろう。
介億の言葉が脳裏をよぎる。誰かを探していると言っていた。でもそれはやっぱり信ではないだろう。会ってしばらく経つのに、思い出すことも意識する気配もない。少しばかり持った期待も、今は露と消えていた。
探している人物と会えば、無理のない生き方をしてくれるだろうか。翳りを帯びる瞳に光が灯るのだろうか。それはとても喜ばしいことなのに、信の胸はズキズキと痛みだす。
サイドボードに買ってきたものを置き、枕もとに座って昌平君の寝顔を見つめた。昔は、こうやって無理をした昌平君を介抱したこともあった。休めと叱って、寝台に寝かせて。すると昌平君は、眠るまで手を繋いでいてほしいと信に甘えた。まるで幼子のような目で手を伸ばされて。そのまま指を絡めて、一緒に眠ったこともある。あの頃の甘やかな記憶が、今更に信の喉を焼いてかけ上ってくる。
「っ、薬だけでも、飲ませなきゃな」
手の甲で目尻を拭って、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し寝室へ戻った。寝息を立てる昌平君をしばらく見つめた後、ミネラルウォーターと解熱剤を口に含む。枕元に膝をついて、僅かに開いた唇に、自分のそれを重ねた。こく、と昌平君が飲み込んだことを確認すると、信は振り切るように身体を離した。これ以上、ここにいてはいけない。
「おやすみ。昌平君」
僅かに寝顔を見つめてから、寝室のドアを閉じて昌平君の部屋を後にした。
「しーん。お疲れさまぁ。今日はもう上がりでいいよ」
厨房で洗い物をしていると、一括りにしていた明るい茶色の髪を解きながら先輩の蒙恬がこちらへ歩いてくる。蒙恬もやはり記憶は無かったが、昔と違わず気安い性格で、信と接してくれている。肩まで伸びた髪はよく手入れされていてしなやかだ。信の視線に気付いた蒙恬は、なになに、と顔を綻ばせて体を寄せてくる。
「どうしたの珍しく見つめちゃって。俺に惚れちゃった?」
「ハァ?ちょ、くっつくな泡が飛ぶ」
抱きつこうとする蒙恬をかわそうと身を捩っていると、不意に、強い視線を感じて顔を上げた。店の入り口付近に昌平君が立っている。いつものようにコーヒーを注文するわけでもなく、その場から動かずにただ信を見つめていた。いつもと違う雰囲気にドキリとして、信は水道を止め、手を拭って昌平君へ近付いた。そう言えば会うのは昌平君の家に行ったきりで、寝込みを襲ったような真似をして帰ったことを思い出し、急に居心地が悪くなった。
「おつかれっす。もう、体調は大丈夫なんすか」
「……ああ。面倒を掛けてすまなかった。このとおり、無事に回復したよ」
「それなら、よかったです」
ほっとして笑みを浮かべてみせると、昌平君の眼差しがまた強くなって、信は再び落ち着かない気持ちになる。
「あ、あの……?」
「……李信、君は、」
そのタイミングで昌平君の携帯電話が着信を告げた。言葉を止めた昌平君は携帯電話を取り出して画面の確認をし、信に向き直った。
「……すまないが、これから私事で介億に車を出させるから、今日は君を送っていけないんだ」
「あ、分かりました。俺は自分で何とかするんで大丈夫っすよ」
信が頷くと、昌平君は笑みを浮かべて信の頭を撫でた。指が髪に差し込まれ、頭皮を柔く擦るようにされて、背筋まで痺れが走る。明らかに以前された時と違う触れ方に信は驚いたが、昌平君は何事も無かったかのように背を向けて去って行った。……一体なんだったんだ。何か言いかけていたし、よかったのだろうか。それにしたって頬が熱い。手で軽く叩きながら厨房へ戻る。
「いつもの常連さん、どうしたの?」
「ん?ああいや、何も大した話じゃねーよ。……そうだ蒙恬。今日空いてるけど、どっかメシ行く?」
以前から度々飲みに誘われていたが、帰りは迎えの車がある為断っていた。話を逸らすにもちょうどいいと思い提案すると、蒙恬は嬉しそうに破顔する。
「マジ?じゃあ行こう行こう!あ、そうだ。紹介したい友達がいるんだけど連れてきてもいい?そいつ、気難しそうな顔してるんだけど、案外、信と気が合うと思うんだよね。」
「……そいつって眉毛が吊り上がってる奴?」
「え、もしかして知ってる?」
「知らねえと思うけど、なんとなく」
十中八九、王賁だろう。やはり以前の頃に縁が深かった人間同士は繋がっている可能性が高いようだ。蒙恬がアルバイト先にいたことも初めは驚いたが、蒙武と昌平君が旧知の中であったことを考えれば近くにいたことも納得がいく。皿洗いを再開させながら、会えることを楽しみに思いつつも、とりあえず喧嘩になんなきゃいーな、と苦笑いも浮かべるのだった。
仕事帰りに晩飯、といえば居酒屋が常の信だったが、今夜の店を選んだ蒙恬の嗜好が己とは違うことを失念していた。ビルから徒歩圏内にあるその店はやたら内装が洒落ていて、つまり、居酒屋ではなくダイニングバーというところだった。とりあえず生、という雰囲気ではない。そもそもディナーコースであった。蒙恬は、本格的なものじゃないから気軽に食べてと促すが、こちとらコース料理自体が初めてだ。小奇麗な皿に飾り立てられたちんまりとした肉や野菜の一体どこから手をつけていいのかすらわからない。信がフォークとナイフを持って料理を凝視していると、蒙恬とは逆隣の席から鼻で笑われる。
「フン、庶民には分不相応だったのではないか」
「うるせえな。人の食いモン見てねえで自分の料理に集中しろよ」
「すぐ隣で緊張されると、食べにくくて敵わん。見守っててやるから早く食べろ」
「逆に食べづらいだろ!」
皿から顔を上げて王賁を睨み付ければ、見下ろされるように再び鼻で笑われる。そのまま睨みあっていると、ポカンとやり取りを眺めていた蒙恬が苦笑した。
「ほんとに仲良くなっちゃったね、お前ら」
「「仲良くない」」
「息ピッタリじゃん」
やっぱり俺の勘は当たってたなー、と面白そうに目尻を下げる蒙恬に、信は言い訳しようとして慌てて言葉を飲み込んだ。経緯や理由を聞かれることになっても説明できないからだ。前世からの付き合いなんです、なんならお前もな、なんて言ったところで蒙恬は首を傾げるだけだろう。
待ち合わせ場所にやってきた王賁と目を合わせた瞬間に、互いが昔の記憶があることに気が付いた。だからつい昔と同じようなやり取りをして、蒙恬に不思議そうな顔をされてしまったという流れだった。蒙恬がトイレへと席を空けたタイミングで、信は肉をつつきながら王賁に訊ねた。
「いつから記憶あるんだよ、お前」
「小学校の頃だ」
「そんな前からかよ。俺なんかつい最近だってえのに」
「きっかけは分からん」
「突然か?」
「ああ」
「それは同じかあ」
王賁が記憶を取り戻したことに何かヒントがあればと思ったが、期待は持てないようだ。これで自分を含め、記憶を持っているのは介億、王賁の3人。今のところ、共通点は見出せない。それに自分が出会ってない人間も大勢いる。それらすべてと会えば何か判ることもあるかもしれないが、現状何も収穫は無かった。
「ちなみに王賁の周りで記憶持ってる奴は?」
「いない。お前が初めてだ」
「そっか……」
信が隠しもせずに肩を落として残念がると、王賁は自分の皿の料理をナイフで切り分けながら問いかけた。
「誰か記憶を取り戻したい相手でもいるのか」
「……まあな」
これもまた素直に返した信に少なからず驚いた王賁は、信が頭を悩ませている相手に興味が湧いたが、有益な情報も持っていない自分が首を突っ込むのも気が引け、それ以上の追及を諦めた。
例えば蒙恬。出会った頃は、それこそ自分も昔の記憶が戻りはしないだろうかと期待した時期もあったが、露ほども兆しを見せない相手に、早々に諦めた。記憶が無くても縁は新しく作っていけばいいし、現に今そうして付き合いを続けている。王賁はそう結論づけることができたが、信は記憶を取り戻したばかりだと言うし、まだ落とし所を見つけることができないでいるのだろう。
テーブルに常設された六つ折の紙ナプキンを一枚取り、自分の連絡先を書きつけると信へ渡す。信が疑問に思ってナプキンと王賁を交互に見比べた。
「何か聞きたいことでもあれば連絡しろ。分かる範囲で答えてやる」
「え、なにお前、優しくて気持ち悪ィ」
「叩き斬るぞ貴様」
つい昔のような応答をすれば、信が可笑しそうに笑って、ありがとよ、とナプキンをポケットにしまった。
運ばれてくる料理と全て戦い終わる頃にはすっかり腹も満たされた。そろそろ帰ろうかと席を立つと、レジで会計をしている先客が視界に入ってきて、信は動きを止めた。蒙恬がつられてレジの方を見て、あ、と声を上げる。
「昼間の常連さんじゃん。今日はよく会うね」
他人の空似かもしれないという淡い期待は、蒙恬の発言ですぐにかき消されてしまった。衝動的に窓の外を見れば、道路脇に見慣れた車が停車している。介億こそ見えなかったが、いつも昌平君と一緒に乗っている車である。やはりレジで会計している人間は、昌平君で間違いなかった。しかも一人ではなく、見たことがない女性を連れていた。肩まで伸びた柔らかそうな黒髪を揺らし、Iラインの控えめな、それでいて女性らしいワンピースを着た美しい女性だった。見目麗しい男女の組み合わせはそれだけで周囲の目を引く。昌平君は持っていた女性のコートを着せてやり、腕を差し出した。当たり前のように女性の手がそこに絡まる。カランと軽やかなドアベルを鳴らしながら、昌平君と女性は店の外へ出ていった。
「あれってウチのビルの社長令嬢じゃなかったっけ。もしかして恋人同士なのかな」
そんな蒙恬の声を聞きながら、二人が車の後部座席に乗り、やがて遠ざかっていくのを呆然と見つめていた。
信はその日、どうやって自宅まで帰ったか覚えていなかった。荷物を下ろし、シャワーを浴びて幾分か頭がスッキリしてくると、バッグから携帯電話を取り出して画面をタップする。
” 社長令嬢 説明 “
それだけをメッセージ欄に打ち込んで介億に送信する。間もなく既読がついたと思ったら電話がかかってきた。
『いつ知ったのだ』
「たまたま俺も店にいたんだよ」
それだけで理解した介億から長い溜息が聞こえる。溜息をつきたいのはこっちだ、と信は内心舌打ちした。
「あんな恋人がいるなら、わざわざ俺が何かする必要ねえじゃん」
『あの女性は恋人などではない』
「じゃあなんだってんだよ」
『婚約者だ』
「ますます悪いじゃねえか!」
『双方の合意ではない。会社から強く薦められたのだ』
信と会う前から二人は婚約関係にあると言う。もちろん二人の仲が進展し、それによって介億の懸念している昌平君の面差しが和らいでいるというなら悪い話ではないのだが、現状その兆しは無く、ただでさえ忙しい仕事の合間に意中でもない女性との付き合いが増え、負担が増しているだけなので、介億としては早々に先方が諦めるのを待っているらしい。
「肝心の昌平君はどう思ってんだよ」
『自分が婚姻を進めることで会社との関係が良くなるなら吝かではない、と』
「はあああ?」
『だから私は、そなたに希望を託しているのだ』
会社の為に好きでもない人間と結婚するということが理解できない。そういう世界があるのは分かる。政略結婚っていうやつだ。いやでも待て。順番が違うだけで、結婚して傍にいれば情も湧いてくるものなのかもしれない。むしろそれは自然なのかもしれない。なんたって、一番相手と強い結びつきを得るのだから。
『このままでは昌平君は、』
「いいんじゃねーの」
介億の言葉を遮るように信は肯定する。
「そこから始まる情もあるだろ。見守ってやんのも、ひとつの手じゃねえ?社長令嬢なら、将来も安泰だろーし」
無意識に心臓のあたりに手をおいて、服を握りしめた。
「子供とか出来たらほら、そっちに愛情が生まれるかもしんねーじゃん。父親やってる昌平君の顔とか、見てみたいと思わねえ?」
そうだ、それこそが、生まれ変わって新しく得られる幸せなのかもしれない。信は明るく話しているつもりなのに、介億からは重いため息しか返ってこなかった。
信は本職が忙しくなったことを口実にしてアルバイトをしばらく休むことにした。介億には、あからさまに不審そうな態度を取られたが、気付かないフリをして話を濁した。
ずっと自分の気持ちがぐちゃぐちゃのままだった。記憶を取り戻して、少しだけ期待して、怖気付いて、物分かり良く諦めようとして。自分がどうしたいのか、わからなくなった。ただ、昌平君のことを考えると胸がズキズキと痛みだしてどうしようも無かった。部屋にこもっていると同じことばかり考えてしまう。むしゃくしゃしたまま上着と鍵を掴むと外に出た。
「……寒」
冬の夜。ドアを開けると外気はしんと冷たく、空を見上げても星一つ見えない曇り空だ。沈んだ空気がまるで信の心を現しているかのようで、自嘲しながら靴を履いて外に出た。吐く息が白い。歩く度につま先と指先から冷たくなっていく。もしかしたらこのまま雪が降るのかもしれない。近くの公園まで来た信は、カイロ代わりに自販機で缶コーヒーを買い、目に留まったベンチへ腰掛けた。そのままぼうっと景色を眺めていると、近くの団地から子供の笑い声が聞こえた。なんとなくそちらに目を向けて、窓越しにクリスマスツリーを見つけ、今日はイブだということに気付く。
記憶を取り戻してから何度も思う。戦乱の世からは到底考えられないほど、今の世は平和だ。自国の行事でもない神様の生誕祭を一大イベントに換えて、プレゼントを贈り合うなど、中華統一という大業を成した大王でも想像できなかっただろう。それでも、あの戦いの日々があったからこそ今があると信は信じている。あの頃に起きた出来事や心情の軌跡は乗り越えて然るべきものだったのだと。だからこうして、今を生きていられるのだ。
しかし、もう一度同じことを繰り返せと言われたら、まっぴら御免だと思った。たくさんのものを得たが、同時にたくさんのものを失った。背負ったものは言葉では表せないほど大きくなった。
「……もう、辛い思いはしたくねえ」
前世の自分が聞いたら殴りそうなほどの弱音が口をついた。でも、これが真実だ。嘘偽りのない信の本当の気持ちだった。
ああそうか、だから自分はこんなにも――
不意にポケットの中の携帯電話が振動した。通知を見ると、尾平だ。そういえば、明日カラオケに誘われているのだった。いつもの飲み会だと思っていたが、なるほどクリスマスパーティーかと今更気付く。返事をしなければと身動ぎしたところで、同じポケットから何かが地面に落ちた。見下ろすと、紙ナプキンだった。王賁からもらった連絡先だ。こちらも結局連絡していないままだった。信はしばらく考えた後、書かれた電話番号へ電話を掛けた。おそらく出ないだろうと思った相手は、ものの2コールで繋がった。
「よお。俺」
『……まず名乗れ』
「判ってるから出たんだろ?」
『フン。こんな日に電話を掛けてくる奴など限られてくるからな。寂しい男だ』
「それブーメランだからな。お前だって一人ぼっちで部屋で泣いてるんだろ!」
『貴様と一緒にするな。俺は外出先だ』
「俺だって外ですう!」
誰もいない夜の公園のベンチで缶コーヒーをすすってるとは言わないけどな!
王賁の声と混じって、人混みの喧騒やクリスマスソングのBGMが聞こえてくる。どうやら本当に王賁は賑やかな場所へ出掛けているらしい。それなら話し相手をしてもらうのも難しいだろう。気まぐれで掛けただけだったので、電話を取ってもらえただけでも良しとしよう。早々に電話を切るための言葉を探していると、その間に王賁の方から言葉が返ってくる。
『何かあったのか』
「え」
『なんでこのタイミングで掛けてきた』
王賁の問いかけに答えられない。気まぐれだったのは本当だ。けれど、少し弱音を吐きたかった。なんとなく、王賁なら聞いてくれる気がしたのだ。そんなことを本人に言える筈もない。
『こっちに来るか』
「!」
『蒙恬もいる』
王賁の声の後ろから「え、なに、信と話てんの?」と蒙恬の声が聞こえてくる。そのまま王賁から電話を奪おうとしているのか、二人の揉める声が耳をくすぐって、信は息を吐いて笑った。
「なんかお前、ほんとに優しーのな」
『電話口で死にそうな声を出されたら誰でも慎重になるだろう』
「それ俺のこと?」
『お前以外に誰がいる。どうするんだ。来るのか、来ないのか』
だんだんと気持ちが落ち着いてくる。このまま王賁と蒙恬と騒げば、頭もスッキリするかもしれない。
「わかった。行く。場所って、どこ――」
突然、背後から腕が伸びてきて、手首を掴まれた。信が呆気に取られているうちに携帯電話を奪われる。
「悪いが信は都合が悪くなったので行かせない」
そう告げて通話を切ってしまった。その声は、今一番信が頭を悩ませている相手、昌平君だった。信は驚愕に目を見開く。
「なんで、あんたがここに、」
「住所を介億に聞いた。電話を掛けても出ないから直接来たのだ。家を訪ねてもいなかったから、近くにいないか探していたところだ」
ああなるほど、だから見つかったのか。簡潔に述べられて思わず納得してしまいそうになるが、肝心の、信に会いに来た理由がわからない。重ねて問いかけようとしたが、昌平君の表情が明らかに不機嫌そうに歪んでいてたじろいでしまう。昌平君が信の横に座る。どちらも言葉を発さず、沈黙の時間が流れた。気まずさに耐えかねて口を開いたのは信だった。
「どうして、俺を探してたんすか?」
すると昌平君の気配がますます不穏になって信は混乱する。そんなに怒らせるようなことをしただろうか。最近は会っていなかったので怒らせる原因など作りようも無いはずなのだが。どうしていいかわからずに信が眉を下げると、昌平君が腕組みをして息を吐いた。
「お前が俺を避けるからだろう」
「へ……」
「気付かれていないとでも思っていたのか?急にバイトを休むし、介億とも連絡を取ろうとしない。明からさますぎだ」
昌平君が言う事はもっともだと思った。態度が露骨だったのも認めるしかない。けれど、それよりも昌平君の態度や口調が気になった。なんだかいつもと違う。物腰が妙に砕けていて遠慮が無い。まるでそう、昔のような。
信が凝視していると、昌平君も顔をこちらに向けた。しばし見つめ合い、先に動いたのは昌平君だった。信と距離を詰め、身を乗り出すようにして顔を近付ける。そのまま頬に触れようとしたところで、やっと信が動いた。昌平君の手をかわすように横を向く。
「え、と、何、すか?はは、確かに寒いけど、ちょっと近すぎですよ」
そう言って後ろにずり下がるが、昌平君は許してくれなかった。すぐに離した距離は元通りになるどころか先ほどよりも更に近くなって、信が止めるより先に両手が頬を固定し唇が重なっていた。
「……っ!ん、ぅ……!」
昌平君の手首を掴んでなんとか引き剥がそうとするが、嘲笑うかのように更に口づけが深くなる。何度も角度を変えて口づけられ、隙間から必死に酸素を取り込んだ。一瞬前まで寒かったのが嘘のように、絡まる舌や顔を包む手の平が熱くて、信の頭は早くも沸騰しそうになる。息も絶え絶えになる頃にはベンチに押し倒されていた。
「は……っ、はあ、は……っ」
信が呼吸を整えようと荒く息を吐いてる間も、顔中に昌平君の唇が降ってくる。その後きつく抱きしめられ、ひくつく喉からなんとか声を絞り出した。
「……思い、出した、のか……?」
「ああ」
「いつ……?」
「体調を崩して、お前に介抱されたことがあっただろう。その翌日から、少しずつだ」
説明する間も昌平君は信を離さない。今までの分を取り返そうと言わんばかりに抱きしめて信の存在を確かめている。
「介億も記憶を取り戻していることを知って、お前のことを聞かされたのが今日だ。だから、」
「……駄目だ」
信は手で昌平君の胸を押して距離を作ろうとする。理由が分からず、昌平君は再び信の頬に手を添え顔をのぞき込もうとするが、見るな、と俯いた頭を振って拒まれた。
「何故、拒む」
「当たり前だろ。もう今は昔と違うんだ」
「……何も違わぬ。現に俺はこうしてお前を欲している」
明け透けに告げられて、昌平君の胸元を押している手が震えた。ここで突き放さなければ、きっと後悔することになる。
「婚約者がいるだろ。俺なんか選んじゃ駄目だって」
「介億から合意ではないと聞いただろう。婚約は破談にする。それで生じる不利益があったとしても、瑣末なことだ。これはお前が絡んでいなくても同じことだ。気に病む必要はない」
「っ、でも」
「……それとも、もう俺に情は持っておらぬか」
昌平君の言葉に、とうとう信は顔を上げた。以前も同じことを介億に訊かれた。その時は何とも思わなかったのに、今はひどく無神経なことを聞かされた気分になった。情を持っていないかだと。持っていなければ、こんなに苦しい訳がない。こんなに身を引き裂かれるような心地になる訳がないのに。
ああ、覚えている。この痛みは前世でも嫌と言うほど味わった。信の世界から昌平君が消えたあの時から。心臓から喉に駆け上がってくる焼け付く痛みが鼻腔を通り過ぎ、やがて目からこぼれ落ちた。
「俺は……俺はっ!もう、嫌なんだ。傍に、あんたがいないことが。いなく、なってしまう、ことが……っ」
悲痛な声に、今度は昌平君が顔を歪ませた。信の言わんとすることがわかって、胸をかきむしられる思いがする。前世で二人が離れたあの時。どうしようもなかった。歴史の大渦に飲み込まれていた二人は、それぞれの想いだけでは抗えないほどの運命の輪にいた。互いが色々なものを背負い戦っていた。仕方がなかった。互いが納得して、この想いを終わらせた。
次々と溢れ出てくる信の涙が昌平君の指を濡らしていく。信は嗚咽をこらえながら言葉を続けた。
「今度手を取ったら、もう離してやれない。昌平君が離れたいって思っても、許せない。しがみついてでも引き止める。そんなん、みっともねえし、情けねえし。……さ、びしい」
また、さびしくなるのは、いやだ
それが、信の一番の本心だった。また昌平君と離れ離れになる未来が待っているのだとしたら、始まる前に終わらせたい。そんな思いをするくらいなら、他の傷ならどれだけ受けたって構わない。たとえ、昌平君が自分ではない他の誰かと幸せになるのだとしても。信の心は、自分自身でも自覚が無かった程に奥深くまで傷付いていたのだった。
「離さなくていい」
昌平君は今度こそ、信を自分の懐にしっかりと抱き込んだ。長い間離れていたのが嘘だったかのように浸透する信の体温が心底心地いい。信の呼吸が間近で聞こえることが嬉しい。懺悔のような信の告白が、こんなにも自分を満たしていることを、昌平君のできる術の限りを持って伝えてやりたかった。
上着のポケットに手を入れ、小さな小箱を取り出した。その中のシルバーリングを、信の右手薬指にはめる。感触に気付いた信が目を丸くするのが手に取るようにわかるようだった。指にはまったリングを撫でる。急いで見繕った割にはサイズもちょうどよく、信の指に似合っていた。
「俺がどれだけお前に傾倒しているのか、前世できっちりと伝えたつもりだったが、まだ理解が足りていなかったようだな」
記憶を取り戻して、信が傍にいる事実にどれだけ自分が喜んだのか。一刻も早く信を囲い込む為に、まず用意したのが指輪など、重たいにも程がある。こちらは離す気など毛頭無い。それこそ、信が離れたいと言っても聞く耳など持つつもりは1ミリも無かった。
「お前が覚悟するべきことは、俺から離れる選択肢が無いという現実を受け入れることだ」
信の顔を上げさせてやると、大粒の涙がボロボロと頬を滑っていく。そのうち目が溶けてしまうのではないかと思う程に潤んでいて、昌平君は唇を寄せて涙を吸い取った。
「ということは、全てが収まるところに丸く収まったということだな?」
「お、おう……まあ、そういうこと」
アルバイトを再開した信は、介億と車の中で昌平君を待ちながら、事のあらましを話した。車に乗り込むなり、介億が説明を求めてきたのだ。なるべく曖昧な表現で伝えるが、信の表情や声や、何より右手の指輪で全てを悟ったかのようにニヤニヤと笑みを浮かべられて信は居た堪れなくなってくる。
「主の表情も、昔のような力強いものに戻っている。やはり私の勘は正しかったのだ」
「……まあ確かに、記憶が戻る前よりかは全然良くなったよな」
あれから間も無く、昌平君の婚約の話は破談となった。詳細はわからなかったが、今までと同じように仕事をしているし、上手くやれたのだろう。車の中で仕事をすることも減った。その代わり、信と言葉を交わすことが多くなった。笑うことも増えたし、信を見る眼差しが優しい。そのことが、信には一番嬉しいことだった。
そういえば、と介億が口を開いた。
「記憶が戻る前の表情だがな。厳密に言うと、以前も同じような表情をしていたことがあったのだ」
「へえ。呂不韋の傘下になる前とかか」
「いや、……そなたと離れた後だ。だから、私はそなたと接触すればなんとかなるのでは無いかと、確信に近い思いを持っていた。ただ、そなたにそこまで告げるのは、それこそ重荷になるかも知れぬと思い、濁していた。結果、杞憂だったな」
記憶が無くても、昌平君は自分を求めていてくれていた。そう、自惚れてもいいと言外に言われた気がして、すっかり緩くなった涙腺が刺激される。ごまかすように鼻頭を掻いて、窓の外に目を向けた。
「そんなことないぜ。俺も自分の気持ちに向き合う為の時間が必要だった。……だから、あんたには感謝してる」
介億も笑って同じ方向を見た。その先からは、肩まで伸びた艶やかな黒髪を靡かせながら、意志の強そうな切長の目でこちらに歩いて向かってくる昌平君がいる。
ガラス越しに目が合うと、微笑みを浮かべた精悍な面差しに、信も笑い返すのだった。
END