麝香と耶悉茗

※ご注意ください。
モブの女性と総司令の絡みがあります。
それ以外は、平信のゲロ甘です。

※補足
タイトルの読みは「ジャコウとジャスミン」です。

 ふと、花のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。咸陽の城下町で露店をなんとなしに眺めていた信は、香りに誘われるように顔を上げて後ろを振り返った。
 視界の向こうに、鮮やかな色合いの衣を纏った女性が歩いている。結い上げていてもわかるほどに長く艶やかな黒髪が歩く度に揺れている。その髪につけている香油の香りが、風に乗って運ばれてきたのだった。

「良い女だったねえ、どこのお貴族様だろうね」

 露店の店主が眦を下げてうっとりと呟いた。女性が歩いていく方角には王宮がある。ちょうど信も向かうところで、もしからまた会うかもしれないな、と何となしに思った。

「あれと同じ香油も入荷しているが、あんたもどうだい?恋人の土産なんかにおすすめだよ」

 出された瓶を見つめて、信はむむ、と考え込んだ。確かに信の恋人も香油を常用しているので土産には悪くないが、特定の物しか使っているところを見たことが無い。
 違う物を贈っても困らせる可能性がありそうだし、店主には悪いが、すすめを辞退した。そして、代わりに常用している方の香油を買ってみることにした。

 びっくりするかな、と、今では通い慣れた王宮の石畳を足取り軽く進む。
 信の都合で夕刻に会いに行く約束をしていたが、用事が早く済んだので、どうせなら王宮まで迎えに行こうと考えついたのだった。いつも小難しそうにしている切れ長の目が、信の姿を見て驚きに見開かれるのを想像すると、思わず顔が緩んでしまう。

 中庭を通り過ぎようとすると、ちょうど廊下を歩く昌平君を見つけた。信は破顔して手を振ろうとしたが、昌平君の隣に誰かがいることに気付き、慌てて手を引っ込めた。物陰に隠れ、見つからないように息を潜めて昌平君達が通り過ぎるのを待つ。

「ふふ、やだわ昌平君様ったら」

 横を通り過ぎていく間際、甘やかな女性の笑い声が聞こえた。同時に、城下町で嗅いだ花の匂いがして、あの時見かけた貴族の女性だと確信する。まさか昌平君の知り合いだとは思わなかった。
 だんだんと距離が遠くなっていく後ろ姿を見ると、女性は昌平君の腕に自分のものを絡め、まろい頬を赤く染めて笑みを浮かべていた。
 昌平君の表情は判らないが、傍目には美男美女が仲睦まじく歩いているようにしか見えないだろう。
 完全に姿が見えなくなって、信は詰めていた息を大きく吐き出た。ざわつく心を落ち着かせようと、胸元に手を押し当て、ふらりと歩き出す。

 王宮の出口へ向かいながら今見た光景を反芻する。二人の後ろには他にも従者がいたし、誰が通るかもわからない王宮の廊下だ。密やかな関係ではないのかもしれないが、逆に言えば、衆目に触れても支障が無い関係とも取れる。
 昌平君は秦国の総司令官だ。様々な人物と会い、様々な関係を持つだろう。だから、二人がどうしてそんな風に歩いていたかなんて、ちゃんと確認してみなければ分からない。信が邪推しなければならないような関係ではないのかもしれない。
 そう、だからどうでもいいのだ、そんなことは。
 問題なのは、信が、あの女性のように昌平君の隣を歩くことは出来ないという事実だった。

「――信?」

 あともう少しで王宮から出るというところで、背後から呼び止められ、思わず体が震えた。昌平君だ。
 信の胸中は未だ整理できていない感情が渦巻いていて正直顔を合わせるどころではなかったが、怪しまれてはいけないと、なんとか笑顔を貼り付けて振り返った。

「よお、昌平君」

 手を上げると、足早に昌平君がこちらに近付いてきた。

「何故ここに?」
「ん、ちょっと時間出来たからさ、もしかしたら会えるかなって思って。へへ、そしたら会えたな!」

 信の言葉に、昌平君が表情を和らげて微笑んだ。それは信の前で見せてくれる特別なもので、この表情を見ると、信の胸はいつもじわりと温かくなる。
 それなのに、今は素直に受け取ることが出来ない。上手く昌平君の顔を見れないでいると、違和感に気付いた昌平君が眉を顰めた。

「信?どこか具合でも――」
「……っ!……い、いや、大丈夫だ」

 手を伸ばされそうになって、信は咄嗟に昌平君と距離を取ってしまい、しまった、と脳内で舌打ちした。
 だって、匂いがしたのだ。昌平君から、花のような甘い香りが。あの、艶やかな黒髪をなびかせた美しい女性の香りが。
 信の態度に目を見開いた昌平君に慌て、何か言わなければと思うが、焦れば焦るほど上手く言葉が出てこない。代わりに目の奥から熱いものがこみ上げてきそうになる。いよいよ取り繕えなくなった信は、懐に入れていた小さな包みを昌平君に押しつけた。

「夕刻、また屋敷に行くから!」

 それだけ告げて、信は昌平君の元から走り去ったのだった。




(気まずい……)

 日が暮れる頃合いになって、昌平君の屋敷までやってきた信は門前で肩を落とし動けないでいた。
 もう何度も訪れているから、わざわざ守衛に許可を得ずとも一声掛けるだけで入ってしまって構わないのだが、敷地内に入ってしまえば逃げられないと怖気付いてしまった。
 今日はもう腹が痛くなったとでも仮病を使って帰ってしまおうとも考えたが、以前、本気の怪我を隠して会わずにいたら自宅まで乗り込んで来られたことがあったので、それはそれでまた話がややこしくなりそうな気がする。
 
(くそ、ウジウジ考えたって仕方ねえ)
 
 ようやっと覚悟を決めて門をくぐれば、信を見つけた使用人が慌てて駆け寄ってくる。

「信殿!お待ちしておりました」
「へ、あ、悪い、遅くなっちまったか?」
「いえ、そのようなことはないのですが……殿に、とにかく信殿が来たら部屋へ上げるようにと」

 使用人の必死さに、信は口元を引き攣らせた。どれだけ威圧されたかは知らないが、信を早く連れて行かねば殺されるとでも言い出しそうな勢いだ。これは相当、機嫌を損ねているのかもしれない。

 しかし、急かされるように案内された昌平君の自室に、当の本人はいなかった。お呼びしてまいります、と使用人が慌てて出て行ったのを見送り、溜息をひとつ吐いて部屋を見渡す。
 部屋の主を体現しているかのように無駄な物が一つもない、整理整頓された部屋だ。その壁際に設置された机の上に、小さな包みが置かれている。日中に信が昌平君へ押しつけた香油だった。
 なんとなく手に取って蓋を開けると、嗅ぎ慣れた昌平君の匂い立つ。
 信がこの屋敷で過ごす時は、よく戯れに香油をつけられそうになるのだが、同じ匂いがするのは、なんだかいかにも蜜月を思わせる間柄であると主張しているようで恥ずかしく、いつも逃げ回っていた。
 一滴、指先へ取って首筋にそっと撫でつけてみた。より鮮明になった香りに、恥ずかしくなるどころか安心感さえ覚え、思わず自嘲した。昌平君と同じ香りを纏うことで、どこの誰かも知らない、僅かな時間に昌平君に触れていただけの女性に勝ったような気がしたのだ。

「……カッコわりぃ」

 信は将軍だ。万の兵を先導し、数多の強敵に立ち向かう。命を賭して臨まなければならない状況に幾度晒されても、躊躇いなくひたすらに立ち向かってきた。
 それがどうして昌平君が絡むと、こんなにも心が落ち着かなくなってしまうんだろう。些細なことに動揺して、制御できなくなってしまうんだろう。
 信にとって、恋情は戦よりも難解な試練の連続だった。

 ふと、香油の匂いに、生ぬるい水の匂いが混じった。
 ぽたりと腕に水滴が落ちたかと思うと、後ろから剥き出しの腕が重なって、閉じ込めるように抱きしめられる。
 背中に感じる体温が熱い。俯いている信の視界には、寝着を腰に巻きつけただけの見覚えのある男の足が映っている。それはつまり、素肌の上半身が密着しているということで、理解した途端、耳が熱くなった。見た目も赤くなっているのだろう。耳朶を揶揄うように食まれて、ひ、と思わず声が上擦る。

「昌、平君、――んっ」

 おそるおそる振り向くと、そのまま唇を奪われてしまう。されるがままになっていると、昌平君の濡れたままの髪から雫が何度も肌や服に落ちてきて、なんとか瞼を開けて抱きしめてくる腕に触れた。
 
「髪、拭いて、やるから」

 一度離してほしいと言外に主張するが、口づけが止む気配は無い。そうしている間にも力が入らなくなってきて、身を任せてしまいたくなる誘惑になんとか抵抗して昌平君の腕から抜け出そうとすると、ようやく口づけを止めてくれた。
 昌平君の肩に掛かっている手拭で頭を包んで揉み込むように拭いてやる。腰を抱かれたままだったので、近過ぎて正直やりにくかったが、これ以上文句を言っても離してくれそうにないので、昌平君に抱きつくような形でなんとか手拭を動かした。
 気持ちがいいのか、昌平君は目を閉じてじっとしている。濡れたままで部屋に戻って来ることといい、まるで飼い主に懐く大きな犬のようだ。どれだけ機嫌が悪いのかと身構えていたが、そんなこともないようで内心ホッとしながら拭き終ると、懐に収まるように抱き直されたので、応えるように背中に手を回した。

「珍しいな、こんな時間から湯浴みなんて」

 少なくとも信が訪れている時は、夕食の後に入浴するのがほとんどだったように思う。なんとなく気になって訊ねてみると、昌平君が信の肩に顎を乗せて首へすり寄った。
 
「もう日中のような思いは御免だからな」
「へ?」
「久しぶりに会えた恋人に拒まれるのは、相当堪えたぞ」

 信には知る由も無いが、信が逃げるように去ってしまった時の昌平君は、通りがかる人間が首を傾げる程、微動だにしなかった。出来なかったという方が正しい。
 王宮まで会いに来てくれたと思ったら怯えるように逃げられ、天国から地獄へ一瞬で突き落とされたような感覚に呆然としてしまった。
 しかし昌平君は国の重責を担う総司令官である。予想だにしない展開からの立て直しはこれまで何度も経験してきている。刮目して意識を取り戻した昌平君は、脳を超速回転させ、発生した問題に早急に取りかかった。

 信が昌平君と距離を置く時は、いつも明確な理由がある。逆に言うと、理由が明確でないと信は昌平君を拒まない。それは自惚れではなく、互いを深く理解し合えるだけの長い時間を積み重ねた賜物だった。だからこそ、拒まれる時は、それが周りからするとどれだけ些細な反応でも、昌平君にとっては一大事なのだった。

 信は、もともと約束もしていないのに王宮にいた。つまり、昌平君からしてみれば、信がいつから王宮にいたか知らなかったことになる。
 信と会うまでの自分は、側近の従者である男の娘と会っていた。遠方からはるばる父親へ会いに娘が来ると言うので、是非昌平君にも紹介したいと言われたのだった。
 もちろん、言葉そのままの意味ではない。親馬鹿と出世欲が大いに含まれた縁談であった。普段なら、にべもなく断るが、偶々時間に空きがあったのと、男のこれまでの功績を鑑みて、顔を立てておいてやるかと応じたのだった。
 娘は積極的だった。昌平君の反応を待たずに距離を詰め、しなを作って体を寄せてきた。もちろん昌平君が心揺れることは無かったが、先述のとおり、従者の顔を立てる為、今だけだと好きにさせていた。もしそれを信に目撃されていたのであれば納得がいく。

 娘に抱きつかれていた袖を鼻へ近付けると、花のような甘い香油の匂いがして、昌平君は渋面を作った。決定的証拠だった。このままでは、信と再び会ったところでまた拒まれるだけだろう。

 その後、昌平君は執務室へ戻って鬼気迫る勢いで仕事を片付け、帰宅するなり衣服を脱ぎ捨てて身を洗うことにしたのだった。
 また、逃げた信が本当に屋敷へ来るかどうかも懸念していた。湯から上がってもまだ来ていなければ、自宅まで捕まえに行くつもりだったが、杞憂に終わった。それどころか、部屋で己の香油を自ら肌につけている様を見せられて、たまらず衝動のままに抱きしめたのだ。
 自ら昌平君の香りを纏いたいと思う程、心を焦がしてくれたのだろうか。そう思うだけで今すぐにでもかき抱いてしまいたくなるが、事を急いてしまうと、信が下手に意固地になってしまいかねない。ここまできてお預けされるなど冗談ではなかった。

 思わず笑いがこみ上げてくる。幾つも離れた年下の青年に、嫌われたくなくて自分を見ていてほしくて、子供のように必死になっていることが滑稽でならなかった。
 それでも悪くないと思えるのは、相手が信であるからに他ならない。いつも裏表無く真っ直ぐに昌平君を想ってくれる信にだからこそ、その気持ちに応えたいし、自分が感じた嬉しさや愛おしさを、同じように返したいと思っている。

 だから、たっぷりと時間をかけて暴いてやろう。そうしたら、きっと信は身を羞恥に赤く染めながらも、拙い言葉で気持ちを吐露してくれるに違いない。

「良い香りだな、信」
  
 わざと耳元で喉を鳴らしてやれば、信が潤んだ瞳で見上げてきたので、応えるように信の唇に噛みついたのだった。