ここは咸陽からおよそ北に遠く離れた、国境に近い街。
乾燥した大地は砂埃が立ち上り、対照的な風貌の人々が行き交っている。
砂避けの為に頭から布を被り顔を覆い隠す者。
砂汚れを諦めたかのように肌の露出が多い者。
信は前者だった。亜麻色の長衣で頭から足首までを覆い、のぞき込まねば顔も見えない。
さすれば景色と同化してしまいそうなその姿を主張するように、金の装飾が施された指輪と足輪に付いている鈴が、歩くたびにリィンと軽やかな音を立てていた。
露店をひとつひとつ立ち止まり眺めていると、前方から声を掛けられた。
「何かお探しですか」
衣越しの視界に見えるのは、商人の風体をした優男だった。
信は声を出さずに首を横に振り、脇をすり抜けようとした。しかし、商人に手首を掴まれ引き止められる。
「そんなに急がなくてもよろしいでしょう。貴方が身に着けている装飾品とまではいきませんが、うちも各所から取り揃えた宝石を扱っております。是非見ていただきたい」
男は言うなり、信の手を持ち上げ、甲を撫でて指輪の周りをなぞった。
「これでも目利きには自信があるのです。……宝も、それに見合う人間にもね」
信は決して顔を上げなかったが、声と手つきだけで相手の下卑た笑みが手に取るように分かった。
必死に息を殺す。そうでもしないと自分が抑えられない。
「おや、手が震えている。大丈夫ですよ、優しくしますから……」
耳元で囁かれ、信の中で何かが切れる音がした。
もう駄目だ。我慢の限界だ。
そう思った瞬間だった。強い力で後ろに引き寄せられ、気付いた時には逞しい腕が自分をその懐に閉じ込めていた。
長い黒髪をまとめ上げうなじを晒し、普段の重々しい深衣とはかけ離れた平民衣を着た昌平君だった。
射殺さんばかりの鋭い眼光で睨み付けてくる昌平君にたじろいだ商人は、すぐに腰を低くして揉み手をした。
「これは失礼。お連れさんがおりましたか」
「商売熱心なのは結構だが、困らせては客にもならんぞ」
「仰る通りでございます」
不意に、信が昌平君の衣の袖を引き、耳打ちする素振りを見せる。
「店の名を教えてくれ。妻が目利きの腕を気に入ったと。後で共に伺う」
そう伝えれば商人は喜々として店の名を伝え、去って行った。
二人は逆の方向へ歩みを進め、露店通りを過ぎ、人気の少なくなったところで信が頭の衣を取り払った。
「ぶはーーっ!ああ息苦しいったらねぇぜ!なんで俺がこんなカッコしなきゃなんねーんだ!」
「声を抑えろ。騒いでは人目につく」
「抑えてただろ!むしろ今まで我慢できたのを褒めてほしいくらいだ。あのクソ野郎、ベタベタ触りやがって……いつもならとっくに殴ってたぞ」
「それは俺が今晩成すことだ。悪いがお前の出る幕は無いぞ」
信と少し距離を置いて後ろを歩いていた昌平君は、商人とのやり取りを一部始終見ていた。
昌平君は、信のこととなると殊更視野が狭くなる。そのことを熟知している信は、昌平君から漏れ出ている殺気に気付き、慌てて話題をそらした。
「と、とりあえず目的の相手が見つかってよかったよな!」
咸陽を出る間際、政へ北に行くことを話すと、じゃあついでによろしく、とおつかいでも頼むかのような気軽さで命じられたのは、他国との密売の疑いがある商会の殲滅だった。
お前達なら大丈夫だろう。良い働きを期待しているとのたまった親友(王様)の笑顔は忘れない。
不本意ではあったが、腕に自信があるのは否定しないし、一国の軍師頭までいるのだ。断る体の良い理由も見つけられず、了と頷くしかなかったのである。
「これで窮屈な隠密行動ともおさらばだ」
信がうざったそうに長衣をくつろがせようとすると、昌平君がその手を引き止め、信の頭を再び布で覆った。そして、そのまま顔を近づけて唇をかすめとる。
「俺は存外心地良かったがな。こんなことでも無ければお前を守る機会など早々無い。役得だった」
「俺だってあんたを守る側になりかった」
地元民を装うことにしたのはいいものの、女役をさせられるとは思わなかった。
言われた時は大層憤慨した。
いやだいやだそりゃあ身長はちびっと負けてるかもしんねえけどガタイはそう変わらねえだろむしろ顔とかあんたのが綺麗だろ交代しようそうしよう!
……と必死に主張するも成果は無く、いつの間にか言い包められ、視界の狭い格好で昌平君の前をとぼとぼ歩いていた。
頭の良いヤツは皆ずるい。信が唇を尖らせて仏頂面をしていると、昌平君が小さく笑って信の頬を撫でる。
「俺の伴侶役では不服だったか?」
「……んなこと言ってねえ」
それは、悪くなかった。
目尻を赤くしてぼそぼそとつぶやく信に、昌平君の笑みは一層深くなる。
昌平君が腰を抱くと、当たり前のように信の腕が昌平君に絡まった。
背伸びをして唇が重なる。それと同時、信の手首と足首で揺れる鈴が、リィンと可愛らしく音を立てた。
終