犬も食わない

どんがらがっしゃん!
資料庫を通りがかった蒙毅は、中から聞こえてきた盛大な音に目を丸くした。
人が常駐しないような場所なのに、一体何事かと慌てて部屋をのぞく。そこには、倒れた整理棚と、積まれていた木簡に埋もれるようにして倒れている昌平君がいた。

「せ、先生!?大丈夫ですか!」
「ああ、蒙毅か……。悪いが棚を起こしてくれるか」

唯一自由に動かせる右手で手招きする師の元に向かい、棚を起こした。
棚が小振りなものでよかった、と蒙毅は胸をなで下ろしながら、そこら中にちらばっている木簡を拾い集める。

「何をされていたんですか?」
「いや、目を通しておきたい資料があったから、それを探しにきたのだがな」

ちょうどこの棚を横切ろうとしたところで何かにつまづき、棚ごとひっくり返してしまったのだとう言う。
昌平君の言葉に、蒙毅は何かつまづきそうなものが床に落ちているか探したが、特に何も見当たらない。そのことを告げようと昌平君に目線を戻すと、今度は起こした棚の角で盛大に頭をぶつけていた。

「なんだこの棚は。やけに人の邪魔をする」

昌平君は眉間に皺を寄せ、不敬だとばかりに棚を睨み付けているが、蒙毅からは、どう考えても昌平君自ら棚にぶつかったようにしか見えなかった。

「先生、どこか具合でも悪いのでは?」
「?何故だ」
「いえ……大丈夫なら、よいのですが」

普段の様子とは明らかに異なるが、本人は無自覚のようだ。ひとまず心配は置いておくことにして、蒙毅はあらためて昌平君へ口を開いた。元々用事があって、昌平君を探していたのである。

「先生に客人がいらっしゃってますよ」
「客人?」
「ええ、飛信隊の信が……」
その名前を聞いた途端、昌平君の眉間の皺が一層深くなった。
「居ないと言え」
「えっ?」
「私は重要な会議がある故、不在にしていると伝え、帰らせろ」
「で、ですが……」

有無を言わさぬ威圧感に飲まれ、蒙毅は片付け損ねた木簡と共に、資料庫を出てしまった。
どうしたものかと首をひねりながら廊下を歩いていると、待ちきれなくなったのか、正面から飛信隊の信が歩いてくる。向こうもこちらに気付き、手をあげて駆け寄ってきた。

「昌平君は?いたか?」
「ああ、ええと、ですね……実は急な会議が入ってしまって……」
「いないのか」
「はい……すみません」

蒙毅が頭を下げて見せると、信は納得のいっていないような複雑な顔をしている。明らかに穏やかでない空気だ。喧嘩でもしたのだろうか。
宮中の文官との衝突なら分かる。父絡みの武将との取引なら分かる。何故、飛信隊の信と?兄と並んで次世代の覇を競っているような人間と師がわだかまりを作る理由はなんなのだろう。
このまま信を帰らせてもいいものだろうか。せっかく近くにいるのに、時を逃しては容易に解けるものも拗れてしまうこともあるだろうに。
かと言って、二人の間に自分が容易に介入するのもどうかと思う。そうなると、いよいよ答えが分からない。
蒙毅は、だんだん面倒になってきた。

「信殿。申し訳ありませんが頼みごとをしてもよろしいでしょうか」
「頼みごと?」
「はい。この木簡を、そこの資料庫に片付けていただきたいのです。私では若干、背が足りなくて」
「それくらい別にいいけどよ。部外者が入ってもいいのかよ?」
「大丈夫です。ちょうど責任者がおりますので、その者に訊ねていただければ伝わります」
「そっか。わかった。これを保管すればいいんだな」
「申し訳ありません。助かります。それでは私は所用がございますので、これで」

無理に自分が答えを出す必要も無いだろう。
当人同士で解決させればいいのだ。

「さて、介億先生のところにでも差し入れに行こうかな」

軽くなった懐にしのばせる点心を何にするか決める頃には、二人も邂逅するだろう。
師の健闘を祈りながら、蒙毅は軽い足取りで資料庫から離れていった。

数刻後、昌平君と信がやけにくたびれた表情で資料庫から出てくるのは、また別の話。