「昌平君」
もう何度、名前を呼んだのかも分からない。
己を懐に閉じ込めたまま物言わぬ貝になってしまった昌平君に、どうしたものかと信は途方に暮れた。
信が少しでも動こうものなら、許さないとばかりに腕の力が強くなる。信が出来ることといえば、様子をうかがうように名前を呼ぶことくらいだった。
昌平君の、あんな様を見るのは初めてだった。まるでこの世の何もかもを失ってしまったような悲痛に歪んだ顔が、今も脳裏に焼き付いている。
(ごめんな)
直接伝えることはできなかった。謝るということは、許しを求めていることと同じだ。自分のしたことに後悔はしていないし、今回と同じような死線に立つことがあっても、躊躇わずに矛を振るうだろう。だから、謝ってはいけない。
でも、昌平君をこんな様にさせてしまったことに心が痛む。同時に、その気持ちが嬉しいとも思ってしまった。
(俺は、卑怯者だ)
自分の夢を追いかけることも、目の前の存在も、どちらも手放したくないのだ。
(……あったけえ)
密着した体は、服越しでも昌平君の体温を伝えてくる。頭を預けている胸元からは規則的な心音が聞こえ、音に寄り添うように目を閉じた。
きっと昌平君も、同じように体温を感じて、胸の鼓動を聴いて、信の存在を確かめているのかもしれない。
「昌平君」
すり、と胸元に頬ずりしながら名を呼べば、初めて昌平君が腕の力を緩めた。
「信……」
ようやく返ってきた声は普段の精悍さは無く、まるで置いてけぼりの子供ようだった。言いようのない胸の苦しさに苛まれ、体を伸ばし、俯き垂れた昌平君の髪を掻き分けて額を押しつけた。
「俺はここにいる」
「……ああ」
「あんたが好きだ」
「ああ」
「あ、いしてる」
「……ふっ」
小さく吹きだした昌平君に、なんだよ、と唇を尖らせて見せるが、昌平君は笑うのを止めるどころか肩を揺らして更に笑い出した。
「思ったより元気じゃねーか。心配して損したぜ」
普段せがまれても、照れくささで言えない言葉だったから、喜んでくれると思ったのだ。なのにまさか笑われるとは!
羞恥が感情に追いついてきて、いたたまれなくなった信は、昌平君の腕の中から出ようともがきだした。しかし、せっかく緩んでいた腕の力は強固さを取り戻し、再び懐に閉じ込められる。
「悪かった。あまりにいじらしい物言いをするものだから」
そう言って肩に顔を擦りつけてくる昌平君に、信は早々に脱出を諦めて体の力を抜いた。別に本気で離れたいと思った訳ではない。
「もう一度言ってくれないか」
「へっ、何のことだか、」
「愛してる」
「……っ」
耳元で復唱され、信はビクリと体を揺らしたが、我にかえってそっぽを向いた。
「っ、い、一日一回だけだ!今日はもうおわり!」
「明日になったら言ってくれるのか」
「そうだな!明日になったらな!」
「明日も傍にいてくれるのだな」
振り返ると、昌平君と目が合った。信を見つめる瞳は未だ迷い子のように揺らめいていて、信は体を反転させ向き合うと、昌平君の頭を抱き込んだ。
この男は頭が良いくせに、時折とても馬鹿なのではと思うことがある。
それとも、自分の伝え方が足りないのだろうか。心外だ。常にあふれて零れ落ちそうになっている気持ちが形にできるなら、今すぐ昌平君に投げつけてやりたい気分だ。
「帰れって言われても居るつもりだった。しばらく居座るから、覚悟しやがれ」
最初から決めてたんだ絶対帰らねえと付け足すと、再び昌平君が笑い出したが怒る気にはなれず、むしろこちらまでムズムズしてきて、顔が見えないのをいいことに、信はこっそり頬を緩ませた。
終