二人の馴れ初め。まるし様の本「桃は取りたし梢は高し」にてゲスト参加させていただいた時の再録です。
「どうやら俺は、お前のことが好きらしい」
宮中で偶然会った昌平君に腕を掴まれ、物陰に連れてこられたと思ったら、おもむろに告げられた。信が目を点にして固まっていると、昌平君はその様子を一瞥したきり、あっさりと腕を離して立ち去ってしまった。
何? 今、なにを言われたんだ? ……誰に?
あまりに突然のことで、信は状況を把握するのに随分と時間がかかった。気付けば自宅の寝台に寝転がって天井を見上げていたのだから、混乱の度合いは計り知れない。
告白、だったと思う。好きな相手に自分の気持ちを伝える、それだったと。今まで誰かに告白されたことなど一度も無かったが、どういうものかは知っているつもりだった。しかし、実際に体験した告白は、あまりにも自分の想像とかけ離れていて、信はどうしても事実を受け入れることができなかった。
そもそも相手が異質すぎた。確か昌平君という男だ。呂不韋陣営の中核。つまり政の敵だ。政の敵は信の敵でもある。そんな男に好きだと言われて、信が喜べるはずもなかった。
「昌平君は、俺のことが、好き、らしい」
口に出して言ってみても、全く頭に入ってこない。脳がまるで理解するのを拒んでいるかのように思考が働かなくなる。
大体、「らしい」とは何だ。本人でも不確かなことを打ち明けられても、こちらはどうしたらいいかわからない。
もともと頭を使うことが得意でない信は、だんだん疲れてきて、考えるのを諦めて眠ってしまうことにした。
目が覚めて朝になれば、今日の出来事は全部夢で、無かったことになってはいやしないだろうか。ささやかな期待を込めて、信は目を閉じた。
しかし、物事はそう都合よくはいかなかった。忘れるどころか、次の日も再び昌平君に捕まり、周囲の死角になるところで壁に追い詰められていた。
上から見下ろされるだけで気圧されそうになる。どんなに屈強で体格差があろう相手でも、信は気迫で負けたりはしない。なのに、昌平君相手だと何かが違う。胸のあたりがそわそわして落ち着かなくなる。睨み返してやりたいのに、目を合わせていられない。無意識に顔を横にそらすと、顎を掴まれて無理矢理視線を合わさせられた。
「な……、っん、だよ、」
声が上ずる。なんで自分はこんなに緊張しているんだろう。昌平君は信の言葉には応えず、ただ見下ろしてくるのみだ。信は耐えきれず、昌平君の手を振り払って距離を取った。
「何考えてるのか知らねーが、俺はこんなことじゃ屈服しねえからな!」
これ以上隙を見せないよう、ここは逃げるが勝ちだ。信は昌平君に背を向けて走り出した。
「……何を考えているかなど、昨日伝えた筈だがな」
つぶやかれた昌平君の言葉は、聞こえなかったふりをした。
次の日。いくら同じ宮中といえど、こうも連日会ってしまうものだろうか。廊下の向こうに現れた昌平君に、信は反射的にとび上がった。咄嗟に近くの柱に身を隠し、昌平君が通り過ぎるのを待つ。幸い、昌平君は複数の文官達と連れだって何かを話しながら歩いており、こちらに気付かずに遠のいていった。
ほっと胸をなで下ろし安堵した反面、何故か落胆している自分がいて、信は戸惑った。会いたくないのは本当の筈なのに、昌平君の目に自分が留まらなかったことが、面白くない。
柱の影から出て、昌平君とは逆方向に歩き出そうとすると、背後から声をかけられた。
「信」
「ぎゃあ!」
「なんだ、人を化け物みたいに」
「せ、政か。驚かすなよ」
「お前が勝手に驚いただけだ。それに俺は何度も呼んだぞ。何に気を取られていたのか知らんが、武将がそんなことでどうする」
「うるせえ……俺にも色々事情があるんだよ」
決まり悪げに唇を尖らせてみせたが、政が何かの包みを抱えていることに気付き、そちらに視線を落とした。両手ほどの大きさで、桃色の花びらがあしらわれた綺麗な布に包まれたそれは、どうみても女用の道具に違いなかった。
「後宮に行くのか?」
「ん? ああ。行商人が謁見に来た時に見せてくれた髪飾りに、向に似合いそうなものがあってな」
「へえ、そりゃ地味宮女も喜ぶだろうな」
后の一人である向とは信も何度か顔を合わせたことがある。政からの贈りものなんて、きっとあの気弱そうな顔を精一杯ほころばせて笑うのだろう。そんなことが想像できるくらいには、あの宮女が政を一心に想っているのを知っていた。
「……なあ政。用事があるとこ悪いんだけどよ、少しだけ時間いいか。相談、ってほどでもねえんだけど」
「? 珍しい。明日は雨だな」
柄にも無いことをしているとは自覚していたので、政の軽口には乗らずに頭を掻いた。
「場所を変えるか?」
「……や、ここでいい。んな大した話でもねえ。……はずだ」
「やけに歯切れが悪いな」
歯切れも悪ければ視線も落ち着きがない信に、政は怪訝そうに眉を顰める。そんな視線から逃れるように、政の懐に桃色の包みが仕舞われるのを目で追いながら、信は重くなった口を開いた。
「好き、ってどんな感じだ?」
政は思いきり目を丸くした。
「その……言われたんだけど、よく分かんなくてよ」
「分からないから悩んでいる、と?」
信が頷くと、政は顎に手をあててしばらく考えこんでいたが、やがて後ろを向いて肩を震わせ始めた。
「おい、笑うな」
「ああ……すまん、あまりにも予想外だったから、……そうか、お前にも、そんな縁が出来たか」
なんとか心を落ち着けて政が信の方へ向き直ると、信はまるで幼い子供のように頬を膨らませてそっぽを向いていた。このままでは拗ねて、やっぱりいい、と話を打ち切られかねない、と政は内心焦った。信と色恋の話など、そうそう出来る機会など無い。
「どんな相手なんだ?」
信は口をへの字に曲げた。説明するには名前を言ってしまうのが一番早いが、昌平君は、政にとっても複雑な関係にありすぎる。
曖昧に濁したり、今更この会話を無かったことにしようとしても、きっと政は引き下がってはくれないだろう。目線を泳がせ、頭をかき、しばらく逡巡した後、信は唸るように口を開いた。
「……何考えてんのか分かんねー奴」
「ほう?」
「分かんねえから、こっちの頭がモヤモヤするっつーか……気が付いたらそいつのことばっか考えちまう。あとなんか、目合わせると、こう……胸のあたりが苦しくなって、逃げ出したくなる。けど、あっちが俺の事気付いてない時は、そわそわして、つい目で追っちまう」
名前を言えない代わりに、自分が昌平君に対して感じていることを説明した。すると、黙って聞いていた政は、一息ついた後に信を見つめて頷いた。
「まさしくそれだ」
「あ?」
「最初にお前が質問しただろう。好きとは、どういう感じなのか」
「あ、ああ」
「今お前が言ったことが、その答えだ」
政の言葉を反芻した後、信は爪先から頭のてっぺんまで体を真っ赤に染め狼狽えた。
「はあっ? じゃあ何か? 俺の、俺が、思ってるこれが、」
「お前も相手のことを好きだということだろう」
「…………!」
信は眩暈がした。こんなに体に力が入らないと思ったのは、里典の家で下僕として生きていた時に、叱られて飯抜きにされ、ひもじい思いをした時以来かもしれない。あの時は、次の日の仕事を精一杯やっていればまた飯にありつき回復できたが、今回はどうやって立ち直ったらいいのだろう。
為す術もなくその場に崩れ落ちた信に対して、政は面映ゆそうに口角を上げた。
「良かったじゃないか。これでお前たちは相思相愛だ。今の言葉をそのまま返してやれば、相手も喜ぶことだろう」
「喜ぶのか、これ」
「少なくとも、俺がその相手だったら喜ぶだろうな」
「………っ、……しょ……」
「うん?」
「昌平君に喜ばれても、俺は嬉しくもなんともねー! 喜ばれてたまるかあああ!」
がばりと起き上がった信は、顔を真っ赤にしたまま叫ぶと、その場から走り去ってしまった。取り残された政は、今しがた信が口にした名前に脳の処理が追いつかず、ぽかんと信の走り去った方向を凝視していた。
今、信は何と言った? 昌平君?
やがて、王宮の空に暗雲が立ちこめ、雷鳴が轟いた。あっという間に都中を襲った嵐に、民は神の怒りだと恐れ戦き祈るばかりだったとか、なんとか。
それからしばらく、信は王宮に近寄らないようにしていた。なるべく昌平君に会わずに済むよう、自宅のある風利の地で鍛錬をして過ごした。
昌平君と相対した時の自分が、どんな言動をするか全く想像できなかった。頭の中で昌平君の顔を思い浮かべただけでも顔に血が上り、夜中に奇声を発して何時間も走り回ったり剣を振り回したりしてしまうのだ。本人を目の前にするなどもっての外だった。
そういう時に鏡に映る顔は、いつも苦し気にゆがんでいる。嫌でも昌平君を意識している自分を見せつけられている気がして、どうしようもない気持ちになった。
こうして会わないようにしていれば、いつかこの衝動も落ち着いてくれるに違いない。元々、「好きらしい」という曖昧な言い方だった。それくらいの気持ちなら、こちらの存在を意識させないようにしていれば、いずれ昌平君の興味も失せる筈だ。顔を合わせる機会ができても、きっと目もくれなくなる。昌平君にとって、自分は取るに足らない人間に戻るのだ。
けれど、何故だろう。そう思うと、心にぽっかり穴が空いたような心地になるのは。どうしようもない焦りを感じてしまうのは。
理由はきっと、自分達が、軍師と武将としての関係だからだ。昌平君は秦国の最高総司令官だ。そんな重要な位にいる人間に注目されることは、天下の大将軍を目指す信にとっては必要なことだからだ。決して昌平君個人に意識してもらいたい訳じゃない。
そうして今日も庭で剣の鍛錬をしていると、不意に、馬の走る音がこちらへ近付いてきた。客が来る予定など無かったので、連絡も無しに来る相手など飛信隊の誰かに違いない。
河了貂か、尾平あたりか。そう見当をつけて、馬の方へ体を向けると、相手の顔を見た途端、信は目を見開き、うっかり剣を落としそうになった。そこには、信が今最も会いたくない昌平君その人が居たからだ。
供も付けずに一人で来たらしい昌平君は、宮中で見るよりも軽装だった。華美な装飾の無い、無地の長衣を纏い、いつもは高い位置で括りまとめ上げられている長い髪も、うなじあたりでゆるく結わえているのみ。
この風体では、元々顔を知っているならともかく、一見でこの男が最高総司令官だと気付く人間は少ないだろう。
そんな姿を見て、信は余計にたじろいだ。
今やっと、自分の気持ちに折り合いを付けられそうになっていたのに。自分が昌平君を意識する理由は、将として、軍師としての昌平君を認めているからだと。
それなのに、今の昌平君は、軍師の装いを取り払い、一個の人間として信の前に立っている。
怯みそうになる自分に叱咤しながら、信は拳を握りしめて昌平君を見返した。
「なんか用かよ」
「……言わねば分からぬか」
返事を待たず、昌平君は前に踏み出し、信と距離を詰めた。
信は後ずさりしそうになるのをグッと堪える。負けてなるものかと強く思いながら必死に睨み返していると、昌平君の手に顎を捉えられ、思わずビクついた。そのことが悔しくて、手を振り払うように顔を背ける。しかし、昌平君は構わずに口を開いた。
「好きだ。お前の気持ちを知りたい」
「……っ!」
「もう十分、考える時間はあっただろう」
「え、偉そうなこと言うな! いきなり言われたこっちは何が何だかわかんねーでずっと混乱してんだ!」
不可解そうに眉を顰める昌平君に苛立ちが募る。
「っ悪いか! 大体、「好き」じゃなくて「好きらしい」だっただろ。あんたにとっては、そんなに重要なことじゃないかもしんねーのに、こんなに考えてる自分が馬鹿みたいで情けなくなってんだよ!」
口に出して初めて自覚した。昌平君の気持ちの重さが分からずに、不安になっていた自分に。不安になるほど、昌平君が自分の中に棲みついてしまっている事実に。
信が立ち尽くしていると、昌平君の手が頬に移り、両手で包み込まれた。その温度と感触の心地よさに振り払うことができず、思わず昌平君を見返してしまう。すると、今までで一番優しい眼差しがこちらを見つめていた。
「すまなかった。あの時は俺も、自分の中から湧き上がってくる気持ちに動揺していた。お前を見た途端、我慢がきかなくなって、心の整理もつかぬまま気持ちを告げてしまった。今ははっきりと言える。お前が好きなのだと。こうして焦れて会いに来るほどに、俺はお前に懸想を抱いている」
まっすぐに言われ、信の鼓動が急激に速くなる。顔が熱くてたまらない。喉が震えて、二の句が告げない。
信が身動ぎできずにいると、昌平君は身体に片手を回して抱き寄せた。息遣いがわかるほどの距離に、信は堪えきれずに視線を落とした。
自分と昌平君は、将と軍師という関係で、それ以外はありえなくて。そう思うのに、いつかの政の言葉が頭を駆け巡る。
昌平君に対する感情は、他の誰かには感じないものだ。この感情が、政の言うそれだとしたら、自分がこの男に返すべき言葉は、同じものと思っていいのだろうか。
信は観念して、自分が思っていることそのままを口にすることにした。
「あんた、のこと、考えると……頭がモヤモヤする。考えたくないのにいつの間にか頭の中にあんたがいる。目、見てると、苦しい。見られてても、見られてなくても苦しい。距離が近いと、熱くってしょうがねえ」
本当にこれが、好きだという気持ちなんだろうか。こんな気持ちを、昌平君も抱えているということなんだろうか。
何も返答のないことにだんだんと不安になってきて、そろりと視線を上げた。すると昌平君の顔が苦し気にゆがんでいて、信は目を見開いた。この顔は見たことがあった。昌平君のことを考えている時の、自分の顔だ。
「昌平君。俺……俺、も、あんたが……好きだ」
気付けば口から零れ出ていた。
その瞬間、視界が真っ暗になり、唇に熱いものが重なった。口づけされていると分かった瞬間、体が発火したように熱くなったが、不思議とひとつも嫌な気にはならず、信はゆっくりと目を閉じるしかなかった。
ゆっくりと唇が離れ、同時に目を開けると、昌平君の切れ長の目が間近にあって、信は思わず見つめてしまう。
再び唇は重なっては離れるを繰り返していて、そうしているうちに、なんだかどんどん触れ合っている時間が長くなっているし、頭もボーっとしてきた。なんだかこれはヤバイ、と、本能的に危機感を覚えて、両手を昌平君の胸へ押し当て距離を取ると、不満そうな目を向けられて困ってしまう。
別に嫌ではない。けれど、色恋に免疫が無さすぎて、色々と堪えられなかった。つまりは恥ずかしかっただけだった。それを素直に言うのもまた恥ずかしいというもので、信は悩んだ末に、昌平君の手を取り、庭の軒先に二人で座ることにした。
まさかこんなことになるとは、と、信は頭が半分呆けているまま、隣に座っている昌平君を見た。以前と何も変わっていないはずなのに、気持ちを自覚し受け入れた今は、なんだか無駄にこの男が男前に見えてしまう。
いつもと違う見慣れない格好のせいもあるかもしれない。
「なあ、今日なんでそんなカッコしてんだ?それとも王宮の外じゃいつもそんなカンジなのか?」
信の質問に、昌平君は一寸目を泳がせた後、溜息まじりに口を開いた。
「確かに、自室でくつろいでいる時の姿と近いかもしれないが、今回は、別に理由がある」
「理由?」
「お前に会う為に、なるべく人に気付かれない必要があった。気付かれると、行く手を阻まれる可能性があったのでな」
つまり、信に会う為に変装してきたのだという。意図が分からず、信は首を傾げた。そんな信を横目に見ながら、昌平君はもう一度溜息をつく。
「大王に俺のことを何か言わなかったか?」
「え?」
「数日前から、目の敵にされている。急に呼びつけられたと思ったら、お前の事を問い詰められたりな」
「……あ」
そこまで言われてやっと、自分が政の前で昌平君の名を口にしたことを思い出した。
あの時は混乱するばかりで逃げるように政の前から走り去ったのだった。よく考えたら、あれから政とも会っていない。
「わりぃ、近いうちに政に説明しに行く」
ばつが悪そうに頬を掻く信を見て昌平君は頷いたが、それで大王の態度が和らぐことはないだろうなと、なかば諦めに似た気持ちで遠くを見つめた。しかし、それは元から覚悟していたことだ。大王にとって信が大事な存在であることは知っていたし、知っていても、信への執着は止められなかった。甘んじて受け入れるしかないのだった。
信の頭へ手を伸ばし、奔放な短い黒髪を梳くように撫でる。
すると信が驚いたようにこちらを向いた。照れて振り払われるかと思ったが、信は目尻を赤らめただけで、大人しくされるがままになっている。それだけで、昌平君の胸は甘い苦しみに苛まれた。
日に日に募る想いは限界に達していた。気付いたら、告げていたのだ。
その時は、想いを告げられただけで良いと思っていた。このまま信が何も応えなくても、避けられるようにすらなるかもしれないことも、仕方のないことだと受け入れるつもりでいた。
けれど、欲が出た。大王に自分のことを話してしまうほどに、信は自分を意識したのだと思うと、言いようのない喜びで満たされてしまった。信が自分のことをどんな風に思っているのか、知りたくなってしまった。
そして、王宮に姿を見せなくなった信に焦れて、ここまで来てしまった。
来て、よかった。
撫でた頭を引き寄せ胸に抱く。許される限り、信の中で大きなもので在りたい。
大人しく胸におさまっている信に愛おしさを募らせながら、昌平君は太陽の匂いのする頭に鼻先をうめたのだった。
終