ハッピーホリデー

闇の鏡を抜け鏡舎から出て、まっすぐ寮へ向かう。自分の部屋に着くと荷物だけ雑におき、すぐさま部屋を後にする。
ラギー・ブッチが息急くように向かった先は、サバナクロー寮長、レオナ・キングスカラーの部屋だ。

いつものように窺いも立てず開けようかと思ったが、少し悩んで、遠慮がちにノックした。返事は無い。もう一度、今度は強めにノックしてみる。返事が返ってくる気配はやはり無かった。

「……失礼しまーっす…」

ドアノブに手をかけ、そろりと開けて中を見渡すが誰もいない。どうやらレオナはまだ帰省から戻っていないらしい。
部屋の中に入り、ラギーは念入りに辺りを見回し、ゆっくり足音を立てないように移動した。
ここまで慎重になっているのは、今から自分がしようとしていることに後ろめたさがあるからだ。誰にも見られてはいけなかった。特にこの部屋の主、レオナには。
見られた日には、地の果てまで逃げて身を隠すか、自害するしかない。相応の覚悟を決めて、ラギーはここに立っていた。
部屋の中央には、シングル用と言われてもすぐには受け入れがたいほどの広さを持ったベッドが鎮座している。
ここに寝ているレオナを毎朝叩き起こすのはラギーの仕事だ。レオナがいつも横たわっている位置を睨みつけ、ゆっくりと身を屈めてベッドに膝をつく。よくスプリングの効いたベッドはそれだけでギシリと音を立てた。
少しずつ移動し、目的の位置に辿りつくと、ラギーはシーツを強く握りしめ、そこへ突っ伏した。

「……………はーー……」

途端に鼻腔をくすぐったレオナの残り香に、ラギーの耳がへたりと垂れる。深く息を吸い込み肺に入れたところで、やっとざわざわとしていた気持ちが凪いでいく心地がした。

ウインターホリデーと称した長期休暇で寮を離れ、皆と同じように家族の元へ帰省したラギーは、なんと一日で寮が恋しくなった。自分でも驚いた。驚きすぎてスラムのゴロツキに喧嘩を売り、ボコボコにしたりされたりして祖母に呆れられた程である。
しかし、何をやっても駄目だったのだ。持ち帰った食料を配っている間も、家事をこなしている間も、旧友と話している間も、時間が経てば経つほど頭の中は一人の人物で埋まっていく。レオナ・キングスカラーという恋人に。

寮にいる間、レオナと一緒に過ごす時間は長い。恋人という関係以前にラギーはレオナの世話係だ。レオナのおはようからおやすみまでを見届けている。存在を気にかけていない時間の方が少ないと言っていい。
だからこそウインターホリデーの間は、開放感すら感じてもいい筈だった。

『ちょっとの間だけど羽を伸ばしてくるっス』
『俺がいないからって実家でもグータラしてちゃ駄目っスよ』

なんて上から目線で宣い、レオナから反撃をくらう前に鏡の中へ逃げ込んだのを覚えている。

「一緒が当たり前になってたからって、ねえ」

恋人なんて存在も、ラギーはレオナが初めてだった。
離れていることで、こんなに切ない気持ちになるなんて、世の中の恋人達はどうやって凌いでいるのだろう。

シーツを握りしめたまま体を丸め、ラギーは目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのはレオナのことばかりだ。
これでも我慢したのだ。一日で帰ってくるなんてカッコ悪すぎるから、戻るのは休暇最終日と心に決めて。
なのに、ラギーは最終日より二日も早く帰ってきた。

『腑抜けた顔いつまでも晒してないでどうにかしな』

それで隠してるつもりかい。ハイエナの片隅にも置けやしないよ。
いつの間にかまとめられていた荷物と一緒に、祖母に追い出されたのである。仕方なくとぼとぼと闇の鏡へ向かったが、いざ帰るとなったら途端に気持ちが急いた。
ごまかしきれなかったレオナへの想い。
はやく、あんたに会いたい。

「まあ、急いで帰ってきたところで居るわけないっスけど」

約束でもしていれば有り得ただろうか。いや、約束を取り付けること自体、レオナが簡単に承諾してくれるとは思えない。面倒臭そうに顔を顰めた後、欠伸混じりに、気が向いたらな、と曖昧な返事をもらうのが精一杯だろう。ラギーは勝手に想像して勝手に落胆した。

そうだ、どうせ居やしないのだ。
ここぞとばかりにこの部屋を堪能するチャンスかもしれない。
至る所に設えてある調度品を矯めつ眇めつしたり、無駄に豪華な浴室だって、いつもはレオナの為に湯を張るが今日は自分の為に用意して、高そうな入浴剤をいれて、外から花を摘んできて浮かべるのもいいかもしれない。
ラギーは耳をぴくぴくと跳ね上げ、がばりと勢いよく起き上がった。
しかし、レオナの残り香が、まるで行くなと言うようにラギーをベッドに引き戻した。

「…………くそぅ」

ラギーは悔しそうに呻めいた後、体を丸め、握りしめたシーツを鼻先に押しつけた。
まずはこの広すぎるベッドを制覇しよう。レオナの匂いなんか、自分の匂いで上書きしてやる。
そう決めて、ラギーは目を閉じた。